ブルガーコフと言う作家とその代表作とされる本書は、ロシアによるウクライナ侵略後まもなくして、新聞の論説者が引用して知った。ブルガーコフはソ連時代の作家ではあるが出身はウクライナである。
本書は、破天荒な筋書きで、副主人公と言える悪魔ヴォランドのする黒魔術は、理にかなったものではないが、全て書いてある通りに受け入れなければならないものである。
本書は、主に三つの筋書きからなる。ヴォランドとその一味がする黒魔術により翻弄されるモスクワの人々、イエス(本書ではヨシュア、以下ヨシュアと呼ぶ)を処刑したことで知られるローマ帝国の第五代ユダヤ総督ピラトゥスの処刑前後の苦悩、そしてそのピラトゥスを題材に小説を書き、批評家や作家から批判に晒され苦悩する巨匠とその愛人マルガリータの話である。
冒頭、政府から顧問として招聘された外国人の教授だと称するヴォランドが、パトリアルシエ池でキリストについて議論を始める編集者のミハイル・ベルリオーズと詩人イワン・ポヌイリョフの前に現れる。突然闖入してきた外国人にベルリオーズもイワン当惑するが、三人は一見、神は存在しないことで意見が一致したように見えた。しかしヴォランドは悪魔が存在することを示唆し、ベルリオーズの死を予言する。
その外国人は
「神が存在しないのなら、人間の生活とか地上の秩序は誰が支配するのか?と聞いた。(ベルリオーズもイワンも人間だと答える)。人間が支配するにはいくばくかの期間に対する正確な見通しが必要だ・・自分自身の明日さえ保証できない人間が、いったいどうして支配できるのでしょうか(19頁)」。
その直後、ベルリオーズは予言の通り事故死する。続いてヴォランドはヴァリエテ劇場に黒魔術の出し物で出演すると言って、ヴァリエテ劇場の幹部や下っ端を翻弄する。その晩の黒魔術の出し物を見た観客も翻弄された。その描写が延々と続いた後、やっと13章(概ね半分)過ぎたところで、主人公の巨匠が登場する。詩人のイワンは、ヴォランドの予言や為したことを仲間語り、精神病院に入れられたが、その隣室に巨匠が入院していた。巨匠はイワンに自分のピラトゥスに関する作品とその顛末を語る。
編集者や作家、批評家にその作品を見せると「こんな奇妙なテーマで小説を書くように入知恵をしたのは誰だ」と聞かれたのだと言う。ことに批評家のラトゥンスキイの非難は激越で「ピラトゥス一派」という巨匠を非難する論文が載った。そして、巨匠は絶望して自分の作品を燃やしてしまう。巨匠の作品を読んで評価したのは彼の愛人で既婚者のマルガリータだった。彼女は自分が出版を勧めたことを後悔する。
ヴォランドはヴァリエテ劇場の人達を翻弄した翌々日、ベルリオーズの住居に陣取って、自分を主人、巨匠の愛人マルガリータを女主人として大きなパーティーを開く。彼女はヴォランドの手下によってこのパーティーに招待されていた。独身のヴォランドのためにマルガリータが女主人役をしてくれたことを感謝して、ヴォランドは、燃やしてしまった巨匠の作品を取り戻させ、結末まで書かせたのだった。
本書のピラトゥスは、ヨシュアの処刑を命令しながら、非常に苦悩する。彼は、自分が死刑の判決をするのではなく、ユダヤ総督としてユダヤ人の最高法院の処刑の議決を裁可する立場にあった。ピラトゥスは、処刑前にヨシュアと対談し、彼の考えに大いに共感していた。処刑対象者は4人だった。おりしも過ぎ越しの祭りの日、ひとりを恩赦しなければならず、ユダヤの大司祭カヤファと対談したピラトゥスは、当然ヨシュアを恩赦すべきと思っていたところ、カヤファに押し切られ
バラバを恩赦することになった。つまりバラバを恩赦することでヨシュアの処刑を裁可することになった。この時、暴動を恐れ自分に勇気がなかったことにピラトゥスは、2千年の苦悩を感じることになる。
ブルガーコフと言う作家は、生前、殆ど自作を評価・出版されなかったそうだ。彼は作家では食べてゆけず、スターリンの口利きでモスクワの文芸座で演出業をして糊口した。そこでも自作の上演は許されなかった。亡くなったのは1940年だが、評価されたのはスターリンの死後1954年以降である。そのような背景を知ると、本書で翻弄される作家、批評家、演劇関係者は、作品による文壇への復讐に見える。例えば、ヴォランドの手下アザゼッロとベゲモートは、作家会館と言うべきグリボエードフと言う建物で食事を摂ろうとする。彼らは受付のソフィヤに作家を自称するが、ソフィヤはこの会館に出入りできる証明書を出せと言う。
彼ら(アザゼッロとベゲモート)は作家が作家たることに証明書が要るのかとドストエフスキイを引き合いに言った(524頁)。
そして、ふたりは魔術でこの建物を火事にする。
本書は、キリスト教勃興期と現代のモスクワ、そしてヴォランドの描き出す悪魔の世界と三つの世界を行き来する作品で、ゲーテのファウストを想起する雄大な作品ではある。自分が手にしたのは600頁もある辞書のような本だった。しかし、自分が本書を知ったのは、ウクライナ侵略がきっかけであり、主題が文壇への復讐と受け取るといささかみみっちい感じがしないではない。冒頭に書いた通り僕は本書を朝日新聞の論説欄で知ったのだが、本書を手にした頃には、読んだ論説でいかなる文脈に於いて触れたのか忘れてしまった。そこで読後に調べてみた。その論説は3月5日付け朝日新聞朝刊13面の「多事奏論」で、編集委員・吉岡桂子氏の執筆になるものだった。そこでは、言葉が消えて行くと言う文脈で本書が引用されていた。中国の歴史学者のロシアへのウクライナ侵攻への非難が数時間でネットから消されたことが書かれていた。
「言葉の蛇口を最後に握るのは当局なのか」。この後、ロシアでも同様に良識的なロシア人の言説が消えて行くと言っている。そしてブルガーコフの「巨匠とマルゲリータ」の有名な一節
「原稿は燃えないものです」に言及される。
そこまで読むと、作家が出版できないことを個人的なことと捉えた自分が恥ずかしくなった。出版や言論の自由、それは非常に大切なことだ。本書を読むと宗教論や文化人とは言え要人をおちょくる姿勢、そしてエロスや魔術と、ソ連でよくこんな作品を書けたものだと思った。だが、「こんな」作品こそ出版される価値があるのだろう。
本書は作家の池澤夏樹が選んだ文学全集の一巻である。巻末には作品に寄せる彼の短い解説がある。彼はブルガーコフが神ではなく悪魔に頼って復讐をしたのは、今更神に頼る訳にはいかないと考えたからだと書いている。僕はそうではなく、自分を貶めた言論人への復讐は神よりは悪魔の方がふさわしいと考えたからではないかと思う。本書の神、つまりヨシュアはあまりにも善良だったし、本書では著者が殆ど神のいない世界を描こうとしていたのではないかと思えた。
最初の方は筋書きが奇天烈であり、題名となっている巨匠もマルガリータもなかなか登場せず、方向性が全くないにも関わらず、次はどうなるのだろう、とすんなり読める平易な小説であることを付け加えておく。
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