数年前、後輩女医から届いた出産報告葉書に、某大学病院某内科総医局員がのけぞった。
「◯◯◯」。
その女の赤ん坊につけられた御名は、個人情報ゆえにとても口に出すことはできないが、それはそれは綺羅綺羅しいものであった。
勿論、その出来事以前から90年代のアニメやライトノベルの登場人物のような名前――所謂キラキラネームとかDQNネームとかいうやつの存在――は世に広まっていたし、小児科病棟の名前読み方あてひとりクイズも当直中の密かな愉しみであったが、それは自分たちとは異なる世界のお子さんの名前と信じていたのだ。
つまり、若い頃「夜露死苦」とか壁に落書していた傷つきやすいギザギザハートの方々とかが若くして子供を得て「世界に一つだけの花」を求めて辿りつく名前と思っていたのだ。端的に言えば経済的学歴的社会的知識的弱者の世界の話と思っていたと言い換えても良い。
しかし、後輩よ。君のいる世界にまでこの流行は浸潤してきたのか。あんた、いつも地味に真面目にコツコツやる娘と思っていたけれど、心の中にはそんなキラキラした闇を抱えていたのね。
しかし、数年後また違う衝撃を私は味わう。
周りがぽこぽこ繁殖する。従って色んな子供の名前を聞く機会も増える。
そんな私は、数年前慄いた「◯◯◯」系の名前に、それほど衝撃を受けなくなってしまっていたのである。
寧ろ、今では「◯◯◯」は普通の範疇に思えるようになってしまった。何ということだろう、「世界に一つだけの花」を求めて(なのか?)つけられた名前が、集団に埋没してしまうなんて。
これから先、「世界に一つだけ」を求める親たちはどんな名前を付けていくのか。今では珍しい「◯子」とか「ウメ」とかの世界に回帰していくのか、それとも更に宇宙の彼方イスカンダルを目指して「煮物」とか「宇宙(テラ*)」「火星(ジュピタァ)」とかになっていくのか。*:勿論、テラは「地球」、ジュピターは「木星」である。
この本は、キラキラネームが何故に大量発生し、しかも市民権を得て、最早なにがキラキラかわからなくなっている現状に陥っているのかを検討していく間に「日本語」という曖昧なハイブリッド言語の混沌の渦に落ち込んでしまったというなかなか自滅的かつ刺激的な書である。
因みに、わたしが所謂キラキラネームやDQNネームを嫌うのは、その名前が子供が「こども」である時代しか想定していない名前としか思えず、気持ち悪いからだ。
別にキラキラしているからとか読めないからといって嫌いなのではない。
故に、わたしは個人的に受け容れ難いその類の名前を「ペットネーム」と蔑称で呼ぶ。
因みに、仮性イタリア人パオロ・マッツァリーニもお子様とお犬様のネームランキングが被っていることを
著書で述べているので、この「ペットネーム」という名称もあながち言い過ぎではない。
さて。そもそも、昔から「奇抜な名前」も「読めない名前」も存在した。
奇抜な名前といえば、すぐ思いつくのは森林太郎や織田信長の子供たちだが、じゅげむじゅげむの説話にある通り、昔から変な名前はある程度の人口割合を占めていたのだろう。
また、本来はそう読まないのに「ふいんき」(正しくは、雰囲気)で違う読み方をしたり、本来読む読み方の一部だけを読ませる(「愛」と書いて「あ」、「優、悠、友」とかいて「ゆ」とか)というのも昔からあった手段だ。そうそう、伊達政宗と愛姫の長女は「五郎八(いろは)」だったな。
勿論、それを面白く思わない方々もやはり昔からいて、今では古典的な名の読み方である「和(かず)」でさえ、本居宣長は「カズじゃねーよ、カツだよ」とお怒りだ。
現代の日本語が、500年前・1000年前の日本語と異なるように名前の常識も変わってきた。古典女子名とされる「◯子」の「子」は本来男子の名前であったし、女子の名前となっても平民が名乗って良い名前ではなかった。
そもそも、日本語には「音」しかなかったのだ。
そこに、「漢字」が輸入される。漢字には、もともとの「音」がある。しかし、日本人はその「ネイティブの音(中国語の響き)」だけでは満足しなかった。自分たちの言葉に合うよう、漢字の読み方を変えていったのである。その読み方さえ一通りではない。万葉仮名で書かれた万葉集に、いくつも現代では読み方がわからない歌が存在するのは皆さんご存知の通り(そもそも、いま広まっている読み方も、それが正しいのかは誰にも分らない)。
漢字の読み方を変えるのは、最早日本人の伝統と言っても良い。
名前は、言わば漢字読み方変化(進化?)の最前線だ。
しかし、長い日本の歴史の中、こんなに急激に名前の主流が変化することがあっただろうか。
この百年間に、漢字に何が起きたのか。
明治維新、学制、挙国一致、敗戦、民主化、学制改革、核家族化、学歴社会、ゆとり教育。
時代の波に揉まれ、教育としての漢字知識、つまり国語教育もお国の方針に振り回された。
日本人は隣国のように漢字を排する道を選ばなかったが、大幅に簡易化の道を選んだ。そして、知識層の常識であった漢籍の知識は失われ、古典学習の一画を占めるだけに貶められた。
結果として産まれてしまった、日本語の断層。
その断層出現以降に生まれた第一世代は(まだこの頃は核家族化はそんなに浸透していなかった為)親などの上の世代から生きた漢字を引き継ぐことが出来た。
しかし、その第一世代の子供たちが繁殖し、しかも親に名前を付けさせず自分たちで赤ん坊に名前を付けたとき。
漢字は、響きを乗せるための、ただの記号になってしまった。
キラキラネームが良いとか悪いとかいう問題ではない。名前自体は流行りものだから、いつかこんなペットネームの流行は終わる、と私は信じている。
しかし、名前の変遷から見えてきた、日本人の漢字に対する意識の変化や知識の衰退は恐れるべきだ。
私たちは、一千年以上かけて漢字と向き合い、真剣勝負をしながら、「日本語」を造形してきた。
その長い歴史の中で育まれてきた鬱蒼たる“言語の森”からの滋養が尽きた時、日本語としての漢字は、ただ見栄えがいいだけのデザインと化してしまうだろう。
そう、それはまるで、外国人が彫る漢字タトゥーのような、無意味なものに。
この書評へのコメント