誰目線で読んでいたのかと考えてみます。
良くも悪くも性格に特徴のある少年の主人公には自分を投影できないし、だからと言って自分が大人になって読む時にするようになった「母親目線」で見守るという感じでもない。
物語の母は子供を産んでから身体が弱り、ほとんど登場しないし、実際自分が母親としてこの子を見るというには「伯母さん」の存在が大きすぎるので。かといって自分がこの優しく面倒見の良いおばさん目線でこのややこしい性格の少年を愛情いっぱいで見つめることも難しい。
あ、と思ったのは「座敷童目線」。こんな例が通常あるのかどうかわからないけれど、うん、これが一番近いかも。
主人公の少年が伯母さんの限りない庇護のもと、その背中にへばりつき、手を繋ぎ、着物の裾を掴みながら怖々外にでる様子、悲しさやくやしさや、感動ですぐ涙を流す様子。何よりやっと女の子の友を得て昔の子供たちの素朴な遊びを楽しむ様子、彼の目に移ろう自然の変化や美しい風景。そんな姿を主人公たちには見えない「私」が傍でそっと見ている感じ。ある時はにやにや笑いながら、ある時ははらはらしながら。
ネットもテレビもない時代。その時代の子供の遊びが細やかに描かれていて、僅かながら自分たちの時代でもまだ遊んでいたような遊びが出て来ると、気づかれずに一緒に遊んでみたり、知らない遊びはふーうぅん、そんな風に遊ぶのねとか思いながら真似してみたり。
どこまでが作家自身のことかは解らないけれど、1885年生まれの作者の子供時代を濃く反映していると同時にその時代の多くの子供たちに通じる思い出でもあると思います。ただ少年の兄のように「男らしさ」を求める男の子たちはもっと違った少年時代を過ごしていただろうと思うから、ここに見えて来る「子供の遊び」は少女たちの世界に近いかも。
一つ読みにくかったのは少年の名前を特定しない意図ではあると思うけれど□□坊と書かれている本書ではそこで詰まってしまってしまうので、何か名前を付けるかせめてすんなり読める文字を使って欲しかったなとも思いました。
有名な進学校の先生が本書だけを使って延々授業をされたとか。
それじゃ私ならちょっと飽きちゃわないかなとも思うけれど、有名小説の一部だけ載った教科書で「この部分で作家は何を言いたかったのか」とか考えて指導要領にある「正解」を求めることがどれだけ意味があるのかと考えさせられます。
私が先生だったら、まずはこの作品内の豊かな擬音語について拾っていかせるとか、少年の性格を如実に表す部分を抜き出して その変化、成長の様子を見つめるとか、いっそ登場する自然の風物や景色を探しに行くとか実際にその遊びをしてみるとかなんて面白いかなと思います。
漱石が絶賛し世に出した作品とのことなので、どうしてそこまで魅了されたのかを漱石の作品や漱石の文学論へ派生して調べていくのもまた勉強になるでしょう。何年かけても終わりの無いテーマになるかとは思いますが。
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