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何故、学校の体育は「体育ぎらい」の生徒を生むのか。体育の先生自身が、その理由を深く考察した本。

  • 体育がきらい (ちくまプリマー新書)【Kindle】
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  • 出版社:筑摩書房
体育がきらい (ちくまプリマー新書)【Kindle】
知人のOさんを通じて知った本。

体育の先生が書いた体育ぎらいの分析をした本である。「はじめに」で 「『体育』なんて好きにならなくてもいい」が本書の基本的なメッセージとあり、その深い意味は最終章である第六章に書かれている。まず興味を引くのは最初に登場する「これまでの体育ぎらいの本との違い」である。これまでのこういった本は最後には「体育を好きになってもらう」と言う目的があった。本書はそうではない。この点もなぜ敢えてそれを目指さなかったのか、最終章で明らかにされている。
第一章では体育と言う科目が嫌いになる現実を描いている。まさに自分のような「体育ぎらい」が体感してきたことが語られ、一気に共感した。第二章は体育の授業が嫌いな原因の分析である。この原因は規律の押し付けと恥ずかしさにあるとしている。特に後者は友人の前で実技をしたり、如実に優劣がわかったりする点を明らかにしつつ、恥ずかしさとは何か、哲学的な分析まで盛り込んでいる。規律は学校生活や社会に出てからも必要なものだが、恥ずかしさの分析はこれまた共感する内容である。第三章では体育の先生が嫌われる理由を分析している。第二章とも関連があるが、体育の先生は生活指導も兼ねることが多く、規律の体現である点が主な原因としている。第四章はではなぜ体育の先生が「規律の体現者」となってしまうのか、その原因を探っている。体育の先生のそうした性質は運動部に所属していた人が多いことに原因を求めている。運動部とはもちろんスポーツをする部であり、第五章ではこのスポーツがどんなものなのか丁寧に分析している。第六章は以上を踏まえてのまとめであり、ここでは主に運動の意義を論じているし、その著者の運動論を元になぜ 「『体育』なんて好きにならなくてもいい」のか、冒頭のメッセージ理由が明らかにされている。

評者が体育と言う科目を嫌うようになったのは何時の頃だったろうか。恐らく藤沢から横須賀に引っ越した小学校四年生を境にしてのことだと思う。それまでは体育が特に好きでも嫌いでもなかった。最も嫌いになったのは中学校の時である。特に球技が苦手な自分への「仲間」の罵声など本書に書かれた通りである。おまけに担任は体育科。放課後にはみんなで一緒にスポーツをやろうなどと言い出してこれは・・・。中学校の経験は相当な期間トラウマだった。その中学校に居た時の音楽の先生がこんなようなことを言っていた。「大人になれば恥じらいなんてものはなくなり、先生も昔は嫌だった卓球なんか旅先で平気でやるようになった」。その通りで40代初めの頃、会社で月曜の定時後、みんなでフットサルをやろうと言う事になった時、喜んで参加したものだ(その後の飲み会目当てだったかもしれないが)。僕は社会人になって3回長期入院した経験があるのだが2011年が現時点で最後の入院経験である。その年以後、体を鍛える必要性は痛感し、自分なりに運動をしてきたつもりである。今では、年に数回同級生と登山に行くが、在学中はスポーツで後塵を拝していた自分が、一緒に上った在学中は運動神経の良かった連中より体力で持っていることを誇らしく思った。そんな自分の経験にぴったりな本である。以下、共感する部分である。
このような(現在の)スポーツジムやフィットネスクラブの人気は、同時に学校の体育の授業は10年以上の時間をかけても、子供たちに自らの体を「扱う=管理する」術を伝えることができていないという事実を象徴している(38頁)。

部活に所属していない生徒が、部活に所属している生徒の得意げな、偉そうな振る舞いを見て嫌いになる場合がある。体育の授業を運動部の劣化版と捉えるのは「体育ぎらい」を生む土壌となる(130頁)。

「体育ぎらい」について言えることは、私たちの体を変えることが本来の意味での「体育」であるなら、学校の体育の授業はそのなかのずいぶん狭い世界の話だと言うことである(207頁)。


勉強に関して「御成敗式目なんて知って何の役に立つの?」「ベクトルなんて勉強する必要あるの?」と言うような話を聞く。だが「ハンドボールを習得して何の役に立つの?」とか「跳び箱を飛べる必要があるの?」と言う疑問は在学中に聞いたことはない(跳び箱の疑問に関しては、著者は生徒からそう聞かれたらしいが)。小中学校では勉強を軽蔑することは許されても、スポーツや体育を軽蔑されることは許されない雰囲気があった。
ここで脱線するが本年1月15日付の朝日新聞の「天声人語」に引用された東洋大学の「現代学生百人一首」から。「体育はみんな好きだと言われてる 嫌いなひとは皆じゃないのか」
本書では著者が体育の先生であるにも関わらず、この点を非常に公平に、つまり体育を余すところなく解剖してその問題点を明かしてくれている。日本の体育教育ははっきり言って間違っている。ただ、これは日本だけのことではなく世界的(少なくとも先進国では)にそのようである。
実は読み進めていくと、既読書の記述を思い出して、本書の結論に相当する部分はある程度予想できる内容だった。
ダニエル・リーバーマン著の「人体600万年史」(下)の第13章「本当の適者生存」ではアプローチ4として以下のような文章があった。
最初に手をつけるべき部分は、もっと体育を充実させることを学校に義務付けることであり、スポーツよりもフィットネスに重点を置かせることだ。

この章は各国政府への提言のような形で書かれていたと記憶しており、つまり本書で論じられた体育のミスマッチの問題は日本だけの問題ではないことを意味していると思う。
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  • 掲載日:2024/02/29
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