「刑事コロンボ」は長年のファンで、日本でテレビの脚本を元に小説化された本も買い漁った。その中の解説で本書に触れたものがあり、高校生の頃に本書を買った。50年ぶりくらいに引っ張り出して読んでみた。刑事コロンボは最初に犯行場面を描き、そこからコロンボ警部が犯人に迫ってゆく倒叙推理番組である。脚本家の三谷幸喜がコロンボ・ファンで古畑任三郎シリーズを書いたのは有名な話。本書は倒叙推理小説の古典と言われる。
犯人はイギリスの田舎コールド・ピカービイの工場主チャールズ・スウィンバーンである。彼の経営するクラウザー電動機製作所は、父ヘンリー・スウィンバーンと叔父(母の弟)アンドリュウ・クラウザーが設立したもの。父は亡くなり叔父も事業から引退して、今ではチャールズが社長である。事件発生年は1933年とされ、6年前にチャールズが社長に収まった頃には好景気だったのが、世界恐慌の波にのまれたのか、工場は不渡手形を出す寸前である。叔父は電動機製作所で儲けた金19万ポンドを持ち悠々自適の生活、行き詰まったチャールズは叔父に融資を申し込むが、事業経営に厳しい彼は1千ポンドしかくれない。その癖、自分も関わった工場をしっかり経営しなければ相続人から廃除しかねない考えも持っている。クラウザー老人は遺言を既に関係者に話しており、資産は娘のエルシーと甥のチャールズに等分されるはずだった。ここでチャールズは工場を守るために叔父の殺害を計画する。身分を偽って青酸カリを手に入れ、錠剤化し、叔父が常々食後に服用する消化剤を購入し、底の方に青酸カリ入りの錠剤を入れた壜と、叔父がいつもポケットに入れている壜をすり替える。壜の底の錠剤を飲むまで約19日と計算した。そして自分は事件が起きた時には遠くに居よう、と地中海クルーズ船に乗って旅立つ。
チャールズが首を長くして待っていた叔父の訃報は、ナポリで聞いた。従妹のエルシーの夫ピーター・モートンからの電報による。だが叔父が死んだのは意外なことにパリへの途上だった。実はパリに友人を訪ねたエルシーが交通事故に遭い、一家で訪問のために飛行機に乗ったのだった。チャールズは急いで帰国したが、遺体をパリからコールド・ピカービイに運ぶのに時間がかかり、葬儀には間に合った。フランスの警察医はアンドリュウの死を毒殺と疑っており、コールド・ピカービイで検死審問が開かれた。ここで老人の死因は青酸カリだとわかるものの審決は自殺となった。チャールズはこれで自分と工場の将来は万全と安心したが、意外なことに警察はまだ捜査している。しかもロンドン警視庁からフレンチという警部まで呼び出して捜査に投入している。それでも、チャールズは証拠などないと高をくくっていた。しかし、ある晩、チャールズはクラウザー老人の介護兼執事をしていたウェザラップに呼び止められた。彼は、チャールズが壜をすり替えたのを別室から偶然目撃していたという。1万ポンドの金を要求された。ウェザラップは丁寧な口調ながらも、アメリカで農場を経営している従弟を援助し、自分もその金で出資して共同経営者に収まると言う。金を貰ったらすぐアメリカに姿を消すし、二度と金を要求しないと誓うと言うのだが・・・。チャールズは自分の運命がウェザラップの手に握られていることに我慢がならない。
フレンチ警部シリーズの第15作目。一読の印象は非常に精緻な描写である。過去10年、クロフツの作品は連作推理小説の一章を読んだことがある程度だが、そこでも連作であるにも関わらず、詳細な図面まで持ち出して他の作家の執筆を縛るようなことをして顰蹙を買っていた。本書は450頁もあるが、事件を計画してから訃報を聞くまで180頁も費やしている(実際には冒頭でアンドリュウ老人の死の場面が描かれ、フラッシュ・バックの手法で4週間前に時間を戻している)。工場の金策のあれこれまで詳細に描かれ、更に犯行の手法も微細に記述されている。冗長と思う読者もいると思うが、これらが犯人の心理描写や後の裁判の場面に活きていると感じ、一概に切って捨てる訳にはいかない。
最後の2章はフレンチ警部の事件解明の解説であるが、法廷場面で事件は充分解明されており、本書は警察活動が背景に退く珍しい作品である。惜しむらくは、捜査を方向付ける決め手となる証拠(写真が趣味のクラウザー老人の暗室に会った青酸カリの壜の埃とチャールズが工場を延命させるための融資先の解明手法)が最後の2章で初めて明かさる点である。この2点が、一見、完全犯罪に見える事件を警察がどう解明していったか、後付けの説明に見えてしまう。
僕は、なぜか本書が倒叙推理小説の最初の作品だと言う印象をずっと持っていたが、実際にはソーンダイク博士を書いたフリーマンの
「歌う白骨」所収の短編の方が20年も先んじていた。解説の中島河太郎氏は、倒叙推理小説はあまり書かれるものではなく、方向としては犯罪心理に向かうだろうと言うようなことを書かれている。御尤もなご意見ではあるが、それが後に心理描写にはあまり向かないテレビ作品として興隆を迎えたというのは面白い誤算だった。
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