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小泉節子の語る夫へルンの日常に夢と現が行き来する

  • レビュアー: さん
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思い出の記
小泉節子(セツ)が夫ヘルン(パトリック・ラフカディオ・ハーン、小泉八雲)との13年あまりの結婚生活を回想して書いた文章。

節子が生まれたのは1868年だが、明治元年ではなく、慶応4年(明治改元前)。八雲(1850年生まれ)とは1891年に結婚した(両人とも再婚)。なお、英文ウィキペディアでは結婚を1890年としているが、節子が八雲の住込み女中になるのが1891年2月頃とされるので、あり得ない。

本書がいつ頃の執筆かは調べたかぎりでは不明だが、文献上の初出は田部隆次著『小泉八雲』(早稲田大学出版部、1914年)。

この『小泉八雲』は、国立国会図書館デジタルコレクションに収められている( https://dl.ndl.go.jp/pid/950739 )。それによると、節子の文章は同書第十一章「思ひ出の記」として収められている(236-302頁)。

今回は、青空文庫所収の現代表記版で読んだが、以下、本文については、『小泉八雲』第十一章にある通りのオリジナル(旧字・旧仮名遣い)で引用する。



本書では夫のことは「ヘルン」と書かれている。

評者の周りに何人かハーン研究者がいたが、「ヘルンさん」と呼ぶ人もあった。ヘルンさんのほうが親しみが持てる。

本書で節子が活写する「ヘルン」の姿は、一言でいえば、日本人より日本人らしい、に尽きる。

しかし、彼の中にあった日本人像は、その当時の日本人からは既に失われつつあったものではないか。

ゆえに、彼が求める日本人に出会おうとすれば、それは「夢」の中で訪ねる他なかった。そんな彼からすれば、現実に出会う日本人のほうが、よほど夢のような存在だったのかもしれない。

そんなことを感じさせる本書の箇所を引いてみる。

まず、本当の日本人について。
「しかし私大層好きです、そのような人[ある華族の隠居で、昔風が好きで西洋風が大嫌い]、私の一番の友達、私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私西洋くさくないです」と云つて大満足です。「あなた西洋くさくないでせう。しかし、あなたの鼻」などゝ戯談申しますと「あゝ、どうしやう、私のこの鼻、しかしよく思ふて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本當の日本を愛するです。」などゝ申しました。
次に、この世と夢の世について。
流行には全く無頓着でした。「日本の勞働者の足は西洋人のよりも美しい」と申しました。西洋よりも日本、此世よりも夢の世が好きであったらうと思ひます。休む時には必ず「プレザント、ドリーム」とお互に申します。私の夢の話しが大層面白いと云ふので喜ばれました。
次は、好きなもの。
ヘルンの好きな物をくりかへして、列べて申しますと、西、夕焼、夏、海、游泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、蟲、怪談、浦島、蓬萊などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の關、日御崎、それから焼津、喰物や嗜好品ではビステキとプラム、プーデン、と煙草。嫌ひな物は、うそつき、弱いもの苛め、フロックコートや白シャツ、ニユヨーク、その外色々ありました。先づ書齋で浴衣を着て、静かに蟬の聲を聞いて居る事などは、樂みの一つでございました。
亡くなる直前のこと(明治37年9月下旬頃)。
 亡くなります二三日前の事でありました。書齋の庭にある桜の一枝が、かへり咲きを致しました。女中のおさき(焼津の乙吉の娘)が見つけて私に申し出ました。私のうちでは、一寸何でもないやうな事でも、よく皆が興に入りました。「今日籔に小さい筍が一つ頭をもたげました。アレ御覧なさい、黄な蝶が飛んで居ます。一雄が蟻の山を見つけました。蛙が戸に上つて來ました。夕焼けがして居ます。段々色が美しく變つて行きます。」こんな些細な事柄を、私のうちでは大事件のやうに取騒ぎまして一々ヘルンに申します。それを大層喜びまして聞いてくれるのです。可笑しいやうですが、大切な樂みでありました。蛙だの、蝶だの、蟻、蜘蛛、蟬、筍、夕焼け、などはパパの一番のお友達でありました。
 日本では、返り咲きのするのは不吉の知らせ、と申しますから、一寸氣にかゝりました。けれどもヘルンに申しますと、いつものように「有難う」と喜びまして、縁の端近くに出かけまして、「ハロー」と申しまして、花を眺めました。「春のやうに暖いから、櫻思ひました、アゝ今私の世界となりました、で咲きました、しかし…」と云つて、少し考へて居ましたが、「可愛相です、今に寒くなります、驚いて凋みませう、」と申しました。花は二十七日一日だけ咲いて、夕方にはらはらと淋しく散つて仕舞ました。この櫻は年々ヘルンに可愛がられて、賞められて居ましたから、それを思うて御暇乞を申しに咲いたのだと思はれます。
9月24日頃に季節外れの暖かさで桜の一枝が花を咲かせたが、それは死期の近いヘルンへ、長年の感謝の意をこめて、暇乞いをするために桜が咲いたと節子は受取ったのである。ヘルンが実際に1904年(明治37年)9月26日に亡くなったことを考え合わせると、この文章は胸を打つ。

その26日の朝に、ヘルンは見た夢のことを節子に話す。
亡くなった二十六日の朝、六時半頃に書齋に参りますと、もうさめて居まして、煙草をふかして居ます。「お早うございます」と挨拶を致したが、何か考えて居るやうです。それから「昨夜大層珍らしい夢を見ました」と話しました。私共は、いつも御互に夢話しを致しました。「どんな夢でしたか」と尋ねますと、「大層遠い、遠い旅をしました。今此処にかうして煙草をふかして居ます。旅をしたのが本當ですか、夢の世の中、」などゝ申して居るのです。「西洋でもない、日本でもない、珍らしい處でした」と云つて、獨りで面白がつて居ました。
このときに見た夢は、本当の旅、それも西洋でも日本でもない珍しい場所の旅のようにヘルンには思えた。まるで、そちらが本当の世で、こちらが逆に夢の世であるかのように。

残された節子は、次のような感慨を記すのである。
櫻の花の返り咲き、長い旅の夢、松蟲は皆何かヘルンの死ぬ知らせであつたやうな氣が致しまして、これを思ふと、今も悲しさにたえません。
小泉節子が亡くなるのは、その約四半世紀後の1932年(昭和7年)のことである。
  • 掲載日:2026/02/25
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