本が好き!ロゴ

閉じる

パヴェーゼは現代の神話を書いた、と、訳者河島英昭は言うけれど・・・

月と篝火
イタリアには現在も「全国パルチザン協会」なるものがあり、反ファシズム団体として民主主義を守る活動を続けているそうです。パルチザンは1945年にドイツ軍からイタリア北部の主要都市を解放し、名実ともに民主主義の礎を築き上げました。チェーザレ・パヴェーゼは1930年代から活動を始め、ファシズム政権下にあっても作品を発表し、その集大成とも言える本作を、戦後すぐ世に問うたのです。(直接戦争を知らない)日本人である僕らにその意味が、いったいどこまで理解できるものでしょうか・・・?


訳者、河島英昭氏が言う、本作の二重性について
改めてここで僕が述べることもないとおもうけれど、本作のあらすじを簡単に紹介すると以下の通りです。

語り手の「ぼく」は教会の大聖堂の石段に置かれていたのを、市の孤児院から送られてくる扶養金目当てに貧農のパドリーノとヴィルジーリアに引き取られます。しかし、養母のヴィルジーリアが亡くなってパドリーノはやっていけなくなり、僕は平地のモーラ農場に下男として売られます。その後兵役に出征するまで「ぼく」はモーラ農場で働き、兵役から戻ったのちアメリカに渡ってひとかどの金持ちになり、休暇を利用してイタリアに帰ってきます。

自分が育った村 ⎯⎯ ガミネッラに戻った「ぼく」は友だちでクラリネット吹きのヌートと再会し、おそらく彼の人生のなかで一番幸せだっただろう、モーラ農場での日々を回想するのですが、その思い出はやがてヌートの語る、パルチザンとファシストとの悲惨な抗争へと繋がってゆくのです。

訳者、河島氏は「ぼく」が最初に置かれていたアルバの大聖堂や八月の聖母昇天祭、聖ジョヴァンニの火祭り、ブオン・コンシリオの祭りを引いて本作の精神性について述べ、登場人物及び彼らの行為は(「ぼく」が戻ってきたことも含めて)すべて何某かの象徴だと言われます。そして、表面上の現実の事件 ⎯⎯ 農場の生活、娘たちの行為、殊に祭りや戦争 ⎯⎯ をただ辿るのではなく、同時に裏に流れる精神的な部分も読み取らなくてはならない、とおっしゃるのです。

でも、と、僕はおもうのです、いわゆる聖母の祭りやキリスト教における聖人の祭りなど、(特にキリスト教徒でもない日本人にとって)どこまで理解が及ぶものだろうか、と。河島氏の解説を読んで初めて、パヴェーゼが仕事柄、古い神話に通じていたことを知り、彼が綴っていた日記から多少なりともその真意を汲み取ることができるわけだけれど、全く初めて本作に当たる(僕のような)読者は、そこまで考える必要はないのではないでしょうか? そこまで考えずとも、ここに表れている美しさ、そして戦争の意味を、僕らは考えればいいのではないでしょうか? ただ ⎯⎯


僕らは何も知らなすぎる
僕らは何も知らなすぎる。まして今の若い人たちは、これをどう読むのだろう? 密やかな怒り、悲しみ、諦め・・・そういったものがないまぜになった美しさ。だとすれば、この美しさは罪ではないか? ⎯⎯ 実はこれが、率直な僕の感想です。

本作中には、僕の好きなシーンがたくさんあります。例えば、「ぼく」がアメリカのドライブインで出会った男と禁制のウイスキーを飲みながら、音楽に耳を傾けるシーン。

彼はラジオを聞きながらじっと黙っていた。ぼくも、同じように、音楽のかげに、蛙の声を聞いていた。ノーラは、身を強張らせて、蔑むように男の背を眺めていた。
「この安っぽい音楽と同じだな」と、彼は言った。「似ているじゃないか? 音楽なんていえたものじゃない・・・」
そして前の年のニッツァのコンクールの話をぼくにした。
『月と篝り火』 晶文社/「チェーザレ・パヴェーゼ全集9」より


あるいはモーラの農場での暮らし。最初に貰われた貧農のところとは違って、モーラの農場では「ぼく」が下男としてちゃんと仕事をする様子が描かれます。牛の世話、ぶどうの取り入れ、皆と一緒の食事・・・そんななか、「ぼく」はただの下働きとしてではなく、一人前の労働者として農場主のマッテーオ旦那と給金の話し合いまでするようになるのです。ドイツ兵が、あるいはパルチザンが、同じように村を蹂躙するようになることを知らずに兵役に出た「ぼく」にとって、モーラ農場での何年間かは、一番美しかった時期に違いありません。現実的に、最終的にはパルチザンが勝ってファシズムから解放されたとは言え、戦争は悲惨なものです。そのことを、読者は「ぼく」と同じように、やがて知らされることになります。


あたかもシナリオのような文章が・・・
パヴェーゼをきちんと読むのは(遥か昔に少しばかりかじったことは別にして)これが3作目ですが、その間ずっと、彼の作品に漂う映画のようなイメージについて考えていました。具体的に上げていると全部を写さなくてはならなくなりそうなのでそれはしませんが、例えばぶどう畑のあいだを並んで歩きながらヌートとする会話や、賑やかな祭りのなかで見え隠れする、モーラ農場の二人の娘たちの白や花柄のドレス、農場から出て行きたくて仕方がないのにどうすることもできないで苛立つ娘たちの様子・・・いずれもどこかの映画のワンシーンで見たような気がしてならなかったのだけれど、ふとおもいついたのです、

この文章は、あたかもシナリオのようだ、

と。

もちろん訳者の河島英昭氏の力によるもので原文はどうなのかはわからないけれど、日本語訳を読む限り、言い切りの、センテンスの短い文章、行われたこと、考えたこと、それらの細かな積み重ね、そういったことが、如何にもシナリオをおもわせるのです。それがそのまま、本作の美しさと、そこから受ける優しさに繋がっているのに違いありません。


最後に
本作とは何の関連性もないけれど、最後にこんな一文を揚げておきます。本作を最後までお読みいただければ、僕がなぜこれにおもい至ったのか、おわかりいただけるとおもいます。

マリアナ、きみはそれ(おれたちのホラ話)を信じたふりをして、なんども感心してみせたりしたね。ほんとうはおれたちの戦闘より、きみがサンチャゴやサンタ・クララに出かけて、革命組織と連絡するほうがどんなにか危険だったのに。きみは記憶がいいから、どんなこともみんな頭のなかにしまっておく。だから敵がどこを捜したって、機密書類一つ見つからない。きみが山脈の奥の叛乱軍司令部から幾日もかかって徒歩で山をこえ谷を渡って連絡におもむくのは、いまでは、おれたちのあいだの伝説になっている。時にはきみは唖の真似をするし、時には女教師になったり、時には無知な百姓女にだってなるのだ。そういうきみの大胆さ、沈着さにくらべたら、おれが戦闘前に感じる焦燥や不安など、どういって弁解したらいいんだろう。
『叢林の果て』 新潮文庫/「北の岬」辻邦生 より


*なおタイトルですが、文庫本は『月と篝火』ですが、晶文社版「チェーザレ・パヴェーゼ全集」では『月と篝り火』です。
  • 本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント
  • 掲載日:2026/01/31
投票する
投票するには、ログインしてください。

この書評の得票合計:19

読んで楽しい:1票
参考になる:18票
あなたの感想は?
投票するには、ログインしてください。

この書評へのコメント

    No Image

    コメントするには、ログインしてください。

    月と篝火 の書評一覧

    取得中。。。