ベックさんの書評で本書のことを知りました。感謝いたします。
作者のエベリオ・ロセーロは1957年にコロンビアのボゴタに生まれました。本書の訳者解説によると、「13歳で作家になることを決意」したそうですが、世に認められるようになったのは『顔のない軍隊』(2009年)以降のことで、訳者解説によると2001年刊の本書出版時の反響について、ロセーロは次のように述べています。
「他の大半の著作と同様、『無慈悲な昼食』も書評どころかコメントひとつ出なかった。完全なる黙殺だ。慣れっこにはなっていたけど、納得はいかなかった」
まず、内容を簡単に紹介します。
物語はとある教会の1日の出来事です。そこで働く背中にこぶのあるタンクレドという青年の視点を中心に、話は進みます。教会の責任者であるアルミダ神父の発案で、3年前から「慈悲の昼食」と称して、正午から無償の昼食を提供していました。ただし、曜日によって対象者は決まっていて、月曜は娼婦、火曜は盲人、水曜は不良、木曜は老人、金曜は母娘となっていました。なかでも、老人の日は大賑わいの大さわぎでした。
「老人たちはどんな天候にもこらえ性がないばかりか、待ち時間にも我慢できず、行列は必然的に嘆きや不平、恨みごとのオンパレードと化していく。この昼食がアルミダ神父の善意だということを、受給者のなかですっかり忘れているのは彼らぐらいのものだ」
しかし、この「慈悲の昼食」は、きれいごとだけではありませんでした。
「教会の住人たちの食事の余りが毎回秘かに”慈悲の食事”に横流しされていることは誰もが知っていた。教会で飼っている丸々と太った、つねに満腹状態でごろごろしている6匹の猫たちが見向きもしなかったものまでも」
要するに、教会の住人たちの残飯と、「犬も食わない」どころか「猫も食わない」材料から作られた食事だったのです。はっきりとは語られていませんが、自分たちがぜいたくな食事をしていることを目立たせないようにするための「慈悲の食事」のようなのです。この食事を作っているのが、『マクベス』の魔女を連想させる、3人同じリリアという名前の老女たちです。この他には、アルミダ神父の養女のサビーナがいましたが、彼女はタンクレドとできていて、このところ「ご無沙汰」なので、彼に露骨に今夜は夜這いしてくれと頼んだりします。
要するに、内情は乱れた教会で、タンクレドは辟易していました。その日、アルミダ神父はやむを得ない理由で教会を離れることになっていて、代理でミサを行う神父がやってきましたが、これが信者には受けの良い「歌う神父」だったのですが、この教会以上に乱れた奴でした。
「サン・ホセ・マタモーロスはミサで歌えるだけでなく、ミサで酔える飲んべえ司祭、いわゆるとんでも神父だった」
そこで、ミサの後で飲めや歌えの大騒ぎが始まります。あまりはっきりとは書いていないのですが、どうも欲求不満ぎみのサビーナともできてしまったようです。また、サビーナは、そもそも養父のアルミダ神父の手がつけていたらしいことも、分かってきます。
ググってみたところ、コロンビアでは1991年の憲法改正で宗教の自由が認められたものの、それまではカトリックが国教だったそうで、カトリック信者が9割といわれています。というわけで、神父たちの言動や偽善者ぶりの露骨な描写は意識的に避けているようではあるものの、カトリック教会内部の腐敗を描く、こういう内容では一般受けしなかったのは無理ないと思いますし、保守的な新聞や雑誌から無視されたのも仕方なかったのでしょう。
なお、本書を読んでいて連想した映画があります。マルコ・フェレーリ監督の『最後の晩餐』(1973年)です。原題は「暴食」若しくは「大ご馳走」という意味です。生きるのに飽いた4人の男が、死ぬことに決め、ある豪邸に集まって死ぬまで食って食って食いまくるという話です。マルチェロ・マストロヤンニ、フィリップ・ノワレ、ミシェル・ピッコリ、ウーゴ・トニャッティという当時の伊仏を代表する男優がこの4人を演じ、マルチェロ・マストロヤンニが連れてきたぽっちゃり体型の売春婦(アンドレア・フェレオル)が彼らの最期をみとることになります。要するに、食欲、性欲、睡眠=死という人間の基本的欲望をテーマにし、男どもは死に絶えて、売春婦だけ生き残るというアクの強いカルト映画でした。
そして、この映画のアクの強さを知っているだけに、同じ「暴食」を扱っていても、カトリック教会への批判という現実的なテーマがある分、また描写に多少の遠慮が感じられる分、ややインパクトが薄いように感じられてしまいました。これは目指しているものが、そもそも最初から違っているので、無いものねだりなのでしょう。これはこれで、興味深い内容でした。作者が名を上げることになった『顔のない軍隊』も、気になるので読んでみようと思います。
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