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「パパはあなたが寝付くまで枕元で物語を読み聞かせた。すばらしい物語だとあなたは涙を流した。悲しいからでなく美しいから、そして世界じゅうの何もかもが醜く安っぽいから」(本書収録『苦しみの殿堂』より)

  • レビュアー: さん
  • 本が好き!1級
掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集
本書に関しては、訳者あとがきが実に素晴らしく、一読してから、波乱万丈の生涯を送った作者ルシア・ベルリン(1936-2004)の「ほぼすべてが彼女の実人生に材をとっている」この短編集を読んだ方が良いと思います。

と言うのは、一人の女性が実際に経験したことをベースに全作品を書いたとはとても思えない波乱万丈ぶりだからです。訳者あとがきの中でも本書収録作を次にように分類しています。

「鉱山町で過ごした幼少期(『マカダム』『巣に帰る』)。テキサスの祖父母の家で過ごした暗黒の少女時代(『ドクターH.A.モイニハン』『星と聖人』『沈黙』)。豪奢で奔放なチリのお嬢時代(『いいと悪い』『バラ色の人生』)。四人の子供を抱えたブルーカラーのシングルマザー(『掃除婦のための手引書』『わたしの騎手』『喪の仕事』『今を楽しめ』)。アルコール依存症との闘い(『最初のデトックス』『ステップ』『どうにもならない』)。ガンで死にゆく妹と過ごすメキシコの日々(『苦しみの殿堂』『ママ』『あとちょっとだけ』)」

この他にも認知症になった父親の姿を描いた『ファントム・ペイン』、刑務所の囚人に文章書きを教えていた時の体験がベースの『さあ土曜日だ』のような作品があります。ただ、短編集ではあるのですが、作者の生涯を追う順番で読みなおしてみると、作者の一生を語っている一つの長編小説のようです。作者は、こんな形で、自分の生涯を書き残しておきたかったのかもしれません。


本書収録作は、素晴らしいものばかりです。私がよくやるように、特に印象に残る作品を紹介しようとしても、一作につき、とめどもなく文章が書けそうで、とてつもない長さのレビューになってしまいそうです。感心するのは、どの作品もインパクトのある文章の宝庫だということで、一緒に収録されているリディア・デイヴィスが書いた『物語こそがすべて』でも、次のように記されています。

「ルシア・ベルリンの文章ならば、私はどの作品のどの箇所からでも無限に引用し続け、そしてしみじみと眺め、堪能し続けていられる」

しかし、これは作品の中に唐突に現れるのではなく、用意周到に練られた展開の中でそれまでに語られていたことから、あるいは作者の他の作品で語られていたことの記憶があるがゆえのものなのだろうと思います。


その好例として、シュガー・レイ・レナードがウィルフレド・ベニテスに挑んだWBC世界ウェルター級選手権(1979年11月30日)の実況中継を見ているアルコール依存症患者たちを描いた『ステップ』をとりあげます。この闘い、作中でも語られているようにシュガー・レイ・レナードの圧勝と予想されていましたが、どんなにパンチを喰らっても、それでマウスピースを飛ばされても、ベニテスはリングに立ち続けます。

「誰もベニテスに勝ってほしいとは望んでいなかった。ただリングに立っていてほしかった。そしてベニテスは踏みとどまった」

そして、最終15ラウンド開始のゴングと同時の「なんてこった、まだ立ってやがる」というシュガー・レイ・レナードのつぶやきを待っていたかのように、ベニテスは一瞬マットに右膝をついてTKO負けを宣言されます。

作者の分身と思われるカルロッタという女性が、その姿を見て、ささやくように言うのです。

「お願い神様、どうかあたしを助けて」

このありふれた言葉のインパクトは、それまでの語りがあってのものです。そういう意味で、作者は実に卓越したストーリー・テラーだったのだと思います。

また、この試合で忘れてはならないのは、チャンピオンだったのはベニテスの方で、デビュー以来負けなしの戦績を残していたということです。その強者が初めての負けを経験した試合、しかし絶対にKO負けだけはしまいと踏ん張っている試合を見ている、作者も含めたアルコール依存症患者たちという構図が、映画好きの私には泣けるぐらい感動的です。

そして、後日談としては、ベニテスはこれでキャリアが終わったわけではなく、1981年にWBC世界スーパーウェルター級タイトルに返り咲くものの、翌年トーマス・ハーンズに15ラウンド(!)判定負けを喫し、世界の檜舞台からは去って行ったというものがあります。また、シュガー・レイ・レナードとトーマス・ハーンズが最後に闘った1989年の試合はやはりフルラウンドで引き分けに終わりました。そう考えると、最強ではなかったものの、最強の次ぐらいだったベニテスへの作者のシンパシーをより感じてしまいます。


ちなみに、私の一番好きな文章は、『さあ土曜日だ』の中にあり、これも作者の分身と思える女性の言葉です。

「文章をかくとき、よく『本当のことを書きなさい』なんて言うでしょ。でもね、ほんとは嘘を書くほうがむずかしいの」

昔フォークナーがヘミングウェイを「自分が経験したものしか書けない」と批判したエピソード(それではフィクションを作り続けるには、限界があるということでしょうが)を思い出しました。

振りかえって、作者の人生をたどったかのような、この短篇集ですが、どのぐらい嘘が書かれているのでしょうか。そんなに多くないとは思いたいですが、『ステップ』でも『さあ土曜日』でも、三人称で登場する作者の分身の女性のことを「美人」とか「いけてる」と書いているのは、表紙を見ればお分かりのように、間違いなく嘘ではありません。

そして、本書が今年の私のベスト本候補のひとつであることも、間違いないようです。
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  • 掲載日:2020/12/01
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この書評へのコメント

  1. noel2020-12-30 22:55

    「ルシア・ベルリンの文章ならば、私はどの作品のどの箇所からでも無限に引用し続け、そしてしみじみと眺め、堪能し続けていられる」

    この文のなかの「ルシア・ベルリン」ということばを「hacker」と変えれば、まさにこの書評のことを言います。相変わらず、いい仕事をしますね、hackerさん。

  2. hacker2020-12-30 23:36

    tsuckienoさん、ありがとうございます。

    しかし、ここまでおっしゃられると、恐縮してしまいます。私としては、好き勝手に思うことを書いているだけなのですが、また目に留まったら、感想をお聞かせください。

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