進化の仕組みはさまざまあるとして、ダーウィンが、最も重要だと考えたのが「自然選択説」というものだそうだ。
ここから、現代にいたるまで、ダーウィンの継承者やライバルたち、さまざまな進化研究者たちが次々に様々な研究を引っ提げて登場し、喧々諤々の議論を展開する。
舞台は、主にカタツムリの殻なのだ。どのくらいの種類のカタツムリたちが、世界中に分布しているのだろう。その集団のなかの殻の形状、模様や巻き方(向き、巻き数など)の変異に関する研究だった。
読みながら、これ、ほんとうにどこかに帰着するのかしら、と心配になっていた。新しい説が現れれば、そうか、と思いながら読む。その反論や、融合もあり、どれもそうか、と思う。さらに勢いよく回り始めたある歯車が、ある時突然逆回転し始めるように感じることもあるし、突然ぴたっと止まってしまったように感じることもある。読めば読むほどに、進化というものが、あまりにもとりとめがないように感じられてくる。そもそも一般化することができるのだろうか、と心もとなくなる。
カタツムリを中心にして、進化に惹きつけられた各研究者たちの横顔や半生の物語が、私には、とてもおもしろかった。
たとえば、
「一八七二年八月二日、イギリス南部の村、、ダウンにあるダーウィンの家を、一人の宣教師が訪ねてきた」
この宣教師が、「遺伝的浮動」を提唱した進化学者ギュリックなのだが、宣教師、という職に驚いた。彼の過酷な布教生活にはさらに驚いてしまうのだけれど。
「誰かの為に役に立ちたいという崇高な使命感が、悪夢のように冷酷な思想を導いてしまうことがある。一方で、狂気じみた危険思想が科学上の偉大な功績をもたらすこともある」
という言葉とともに登場するのが、優性思想に取りつかれた進化学者フィッシャーだった。
「勉強嫌いで学校の成績は悪く、登校拒否と退学を繰り返し」た少年は、「貝類への科学的な関心だけは並外れていた」という。大森貝塚の発見者としても知られるエドワード・モースの少年時代なのだそうだ。
著者の来し方の振り返りもおもしろかった。ことに大学院進学の顛末には(オチまであって!)、笑ってしまった。
「歴史とカタツムリはよく似ている。どちらも繰り返す、そして螺旋を描く」
私たちの人生もまた、螺旋を描きつつ、続いていく。同じ模様を繰り返しながら、時々現れる新しい模様に驚きながら、ぐるぐると進んでいく。
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