ぱせりさんとマメゾーさんの書評で、この本のことを知りました。感謝いたします。
ベルギーの古都ブルージュには、まだ訪れたことがなくて、この世におさらばする前に是非行ってみたいと思っている町です。最近では、マーティン・マクドナー監督の今世紀最良の殺し屋映画の一つ『ヒットマンズ・レクイエム』(2008年)の舞台となったことでも、私の記憶に刻まれています。
作者のルドウィッヒ・ベーメルマンス(1898-1962)は、マドレーヌ・シリーズという名は知っていましたが、読むのは初めてです。彼は、当時のオーストリア=ハンガリー帝国、現在はイタリア領となっているチロール地方に生まれました。英文Wikipediaによると、父親はホテルを所有していましたが、6歳の時に両親が離婚したということもあり、本人曰く、暴力をふるう職場の上司に対して銃による傷害事件を起こして、16歳の時に渡米することになったそうです。ただ、この話の信憑性には疑問もあるようで、問題児であったがために、親権者であった伯父に単に見放されたということも考えられるそうです。
渡米後、1925年にニューヨークのレストランのオーナーとなりますが「そのレストランの壁やアパートの日よけなどに様々な絵を描いていたところ、友人の編集者の目にとまり、絵本を描くことを勧められ」(Wikipediaより)1934年に最初の本を出し、1936年刊の本書は、第二作となります。
お話は、二人の娘セレステとメリサンドを連れて、ブルージュの古いホテル「ゴールデン・バスケット・ホテル」(仏語なら、「オテル・ド・パニエ・ドール」)にやってきた、コジシャルさんとその二人の娘セレステとメリサンドの滞在記です。ですが、子供らしい冒険や遊びはあるものの、運河に落ちてしまう事故を除くと、特にすごいことが起こるわけではありません。最後にこの家族がイギリスに旅立つまでが、ホテルのオーナー兼レストランのシェフであるテール・ムランさん、その子供のヤン、「メートル・ド・オテル」(ホテルのことなら、お任せください)という肩書を持つカルヌヴァルさん、そしてホテルやレストランのお客である二人連れイギリス人女性やブルージュの市長さんたちとの交流や、彼らの人物像を描写しながら、綴られています。
そして、本書の最大の魅力は、この描写力です。例えば、冒頭で夜遅くホテルに着いたセレステとメリンダが、翌朝早く目覚めて、赤を基調としたホテルの部屋の内装のかわいらしさに感心するところから始まり、窓の外に展開する早朝のブルージュの街並みや人やハトや馬の何気ない動きの描写は、セレステとメリンダの視点が、そのまま読む側の視点になったかのように活き活きとしています。そして、自らの文章を忠実に再現している、作者によるイラストの見事さも、それを手助けしていることは、強調しておきましょう。この最初の朝の描写もそうなのですが、ホテルの人たちの的確な人物描写にも感心します。お分かりと思いますが、作者自身のホテル業やレストラン業の経験も、すごく活かされた内容になっていて、それが、これらの描写に、誇張はあっても真実味を与えているのだと思います。それと、江國香織の翻訳文が、二人の少女の雰囲気にピッタリで、とても良いことも付け加えておきます。
また、本書で興味深いのは、なぜこの家族がブルージュに来たのか、イギリスで何をするのか、お母さんはいないのか等が、まったく説明されていないことです。作者の経歴を知ると、成程と思う部分もあるのですが、そういう「大人」の事情がまったく入り込んでいないことも、本書の楽しさの秘密ではないかと思います。
最後ですが、本書には、とっても気に入った台詞がありました。
「おいしいお料理は、ぜったいにさますべきではないのです」
昔ですが、築地の近くにランチでよく通った町の天ぷら屋さんがあって、いつもかき揚げ天丼を食べていましたが、天ぷらを揚げる時のご主人の真剣な眼差しがとても印象的でした。そんなご主人が、ある時、私が食べるのを見ていて「旦那、食べるのが早いねぇ」と嬉しそうに言ったのをよく覚えています。そこは、ご飯もお味噌汁も美味しくて、ある時そう言ったら、ご主人は奥様を指さして「之を褒めてやってください。米のとぎ方を教えるのに十年かかりました」と言いました。こういう職人気質の個人経営のお店が、どんどん無くなっているのは残念なことです。
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