<「ホンノワ」テーマ:「書いていない本」のことを語りたい>の中で、さんちゃんさんがこの本を挙げていた。フルトヴェングラーは好きな指揮者だったので読んでみた。
著者のフルトヴェングラーは1886年生まれ1954年没のドイツの指揮者。ベートーヴェンやドイツロマン派の曲を得意とし、ベルリンフィルやウィーンフィルを指揮した晩年のLPが残っていて今でも聴くことができる。
ところで、1933年にドイツでナチスが政権を取ってからはフルトヴェングラーはナチスによる音楽界からのユダヤ人排除に反対し続けていた。この本にはその時代に書いた文章が多数載っている。
当然ナチスからの政治的圧力を受けていたろうが、言うべきことは言う人だったようだ。例えばユダヤ人として迫害されたヒンデミットの音楽については強く擁護している。ただし当時の状況をよく知らないとこの時代に書いたものは分かり難いところがあるかと思う。
それと、今では理解し難いが、フルトヴェングラーが活躍した時代はまだ19世紀末まで続いたワグナー派とブラームス派の党派争いの余韻が残っていたようで、「アントン・ブルックナーについて」ではブルックナーを党派争いから救い出そうとしている。ブルックナーの音楽は党派を超越した特別なものなのだと。
「バッハ」、「ブラームスと今日の危機」、「ワグナーの場合」は作曲家とその音楽について語っている。特に「ワグナーの場合」はワグナーと哲学者ニーチェとの間のかなり歪な関係について書いている。ニーチェに対しては手厳しい批判がある。
「作品解釈の問題」はいわゆる「楽譜に忠実な演奏」論の不可能性、不毛さについて論じているし、「音と言葉」では音楽と詩が(西洋音楽では)ある時点から乖離していったことが述べられている。
冒頭の論文「すべて偉大なものは単純である」は官能性を拒否した音楽、具体的には1950年代に隆盛を極めたシェーンベルクの12音技法への批判だと思われるが、12音技法がすっかり過去のものとなった現在ではピンとこない。フルトヴェングラーがもしスティーブ・ライヒなどのミニマルミュージックを聴いたらなんと言うだろう。
最後はベートーヴェンについて。ベートーヴェンはワグナー派にとってもブラームス派にとっても神のような存在だったが、フルトヴェングラーにとっても特別な作曲家で、彼の作品について複数の文章を残している。
「ベートヴェンの音楽」ではベートヴェンの音楽は今でも聴衆には支持されているが、演奏家はベートヴェンにもう興味をなくしており形式的なつまらない演奏が多いと嘆いている。これは1918年に書かれたものでまだ若い頃の文章だ。当時すでにベートーヴェンを演奏する意味が問われていたようだ。
実際に今、フルトヴェングラーの演奏を聴こうとすると戦後に発売されたモノラル録音のLPレコードということになるだろう。僕が聴いたのも皆モノラルの録音で、ラジオ放送用のライブ音源をLPにしたものらしかった。現在フルトヴェングラーの中古のLPを買うと数千円〜数万円とプレミアが付いて高価だが聴く価値はあると思う。
僕はベートーヴェンの交響曲では録音年不明の交響曲3番「英雄」のLPを持っているのだが、フルトヴェングラーの演奏はアクセントやテンポにメリハリが付いていて、音楽に推進力がある。彼以降の指揮者ではこんな演奏をする人はいなかった気がする。(僕のお気に入りのLPは彼の指揮するブルックナーの8番の交響曲で、凄味のある演奏です。)
戦後の1951年に書かれた「ベートヴェンと私たち」からはベートーヴェンの音楽が内蔵する推進力についての示唆が得られると思う。フルトヴェングラーは交響曲第五番の冒頭のテーマの特異性を強調する。これは音楽史上異常なフレーズだという。
下に楽譜の一部を示したが、このハ短調の曲の冒頭の有名なダダダ、ダーという部分だ。これは4分の2拍子で1小節目のダダダは裏拍で始まり、二小節目のダーはいきなりフェルマータで長く延ばすようになっている。さらに3小節目のダダダでは一音下がって、4小節目のダーも一音下がるが、ここではダーの音が2小節に渡ってフェルマータになっている。つまり出だしのフレーズが5小節で出来ており、更にフェルマータが二回出てくるのは異常といえるかな。
続いてこのテーマは二小節のダダダダーとなって二小節ごとに繰り返されて行き、更にはダダダという1小節が繰り返されるようになっている。つまり冒頭のテーマは5小節→2小節→1小節と段々に圧縮されて繰り返される。これがベートーヴェンの音楽の推進力になっていると思う。
以下は僕の勝手な感想だけれど、フルトヴェングラーの演奏はこのような音楽の推進力を上手く引き出していると思う。ジャズの演奏でいうグルーブ感と共通するものを感じる。フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの交響曲五番を聴いてみたくなりました。
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