ぱせりさんの書評で本書のことを知りました。感謝いたします。
本書の作者リヒャルト・レアンダーですが、これはペンネームで、本名はリヒャルト・フォン・フォルクマン(1830ー1889)という有名な外科医です。独語版Wikipediaには、次のような記述があります。
「フォルクマンは19世紀で最も重要な外科医の一人です。彼は関節切除、複雑な骨折の手術、脊椎や四肢の手術や整形外科の新しい方法を開発しました。彼は(初代リスター男爵ヨーゼフ・リスターに次ぐ)カルボールを用いた消毒創傷治療を導入した最初のドイツ人医師であり、これにより手術の生存率が飛躍的に高まり、真の意味での腹部手術が可能になりました。フォルクマン自身が直腸がん切除の手技を開発しました」
訳者・国松孝二によるあとがきにも、こう書かれています。
「ながいあいだハルレ大学の外科の先生をつとめ、かたわら附属病院の院長をしていました。そして、外科手術の名人として、そのころヨーロッパじゅうで有名でした。近代的な整形外科学のもとをひらいたのも、この人だということです」
1871年刊の本書は、彼が普仏戦争(1870ー1871)に従軍した時に、自分の子供たちに向けて書き溜めた童話をまとめたものです。原題を直訳すると、独語版Wikipediaでは「フランスの暖炉での夢想」となっています。ただ、本書あとがきでは「フランスのカーミンのほとりの幻想」となっています。興味深いのは、戦争に外科医として従軍したのですから、当然生々しい現場を体験しているわけですが、それが落ち着いてみると、自分の子供たちのために、童話を書いていたという創作背景です。ちょっと不思議な気がします。
本書には、22作収録されていますが、例によって、特に印象的なものを紹介します。
●『ふしぎなオルガン』
「ずっと大むかしの話です。とてもじょうずにオルガンを作る、ひとりの若者がありました」
こういう、嬉しくなるような、古典的な出だしから始まります。この若者が作ったオルガンには「神さまの思し召しにかなった花嫁花婿が教会にはいってくると、ひとりでに鳴りだす」というものがありました。ところが、この若者が結婚式を挙げた時、オルガンは鳴りませんでした。若者は、妻に落ち度があると思いこみ、妻を捨てて出奔します。しかし、実際には、オルガン作りの名人だと鼻高々だった若者の驕りの方が問題だったのです。
●『悪魔が聖水のなかに落ちた話』
映画『エクソシスト』(1974年)で印象的な場面の一つに、神父が悪魔に憑かれた少女に聖水をふりかけると、皮膚がさけるというものがありました。その応用でしょうが映画『コンスタティン』(2005年)では、スプリンクラーから聖水を出して、大勢を倒す場面があります。ですから、題名を見て、ちょっと身構えましたが、こちらの悪魔にとっては聖水は臭くてたまらない代物のようで、その匂いをとるために悪魔が悪戦苦闘するという、おかしい話でした。
●『錆びた騎士』
「たいへんなお金もちで」「自分は遊びほうだいに遊びくらしながら、貧乏な人たちには、ひどいしうちをして、いばりちらしていた」身分の高い騎士がいました。「それで、神さまは罰として、その騎士のからだの片側を、錆びさせておしまいになりました。左のうでが錆び、右の足が錆び、それから銅も左半分が錆びてしまいました。ただ、顔だけはそのままでした」
その後、この騎士は心をいれかえ「美しい、信心深い奥さんをもらいました」ところが、奥さんは結婚してから、夫の錆びのことを知って、驚きます。そこで錆びを取るために高名な隠者に助けを求めます。隠者は言いました。
「これを救うには、あんたが世にもあわれな女乞食のように、ぼろを身にまとって、はだしのまま、物乞いをしてあるき、百金貨グルテンをもらいためんことには、望みがない」
奥さんはさっそく言われた通りにします。しかし「九ヵ月も物乞いをして、やっと1グルテンたまっただけでした」はたして、百グルテンなんてたまるのでしょうか。
●『コショウ菓子の焼けないおきさきと 口琴のひけない王さまの話』
コショウ菓子が焼けない女とは絶対結婚しないと言っていた、口琴のひけない王さまがいました。口琴がひけない男とは絶対結婚しないと言っていた、コショウ菓子は焼けないお姫さまがいました。しかし、結局双方とも望み通りの相手が見つからず、この二人は結婚します。はたして、どういう夫婦になるのでしょうか。
結婚前に、ああいう女性がいい、こういう男性がいいなど高望みするのは、意味がないという教訓譚(?)です。
●『魔法のユビワ』
魔法使いのおばあさんに頼まれた仕事をして、ある若い百姓が一つだけ願いごとがかなえられるユビワをもらいます。しかし、男は一つしかかなえられないため、願いごとをなかなかしませんでした。そして、何年も経ち、ほしかったものはほぼ手に入りました。実は、このユビワは、ある金細工師がすり替えてあったのでした。この金細工師は本物のユビワで大量の金貨を望んだのですが、出現した金貨の山に押しつぶされて、亡くなっていたのでした。そんなことは露とも知らない百姓と、このユビワはどうなったのでしょうか?
実は、題名は覚えていないのですが、星新一に類似の設定の作品があります。おそらく、本作が元ネタでしょう。ただし、エンディングは違います。
●『ゼップの嫁えらび』
「5年前から中気で寝ている百姓のばあさん」が息子のゼップに、今日は縁日だから出かけていって、嫁を見つけてこい、とはっぱをかけます。仕方なく出かけて行ったゼップは、途中で出会った娘たちのことを報告します。ばあさんはいちいち「その娘は何をしていたんだい」と尋ね、その都度ゼップは説明しますが、ばあさんは難癖をつけて「その娘は駄目だね」と言います。ところが5人目の娘の話をすると、「その娘をもらいなさい」と言うのでした。
婆さんのつける難癖と、婆さんが気に入った理由というのが、おかしい話です。
●『若返りの臼』
若返りの臼というのが、ある町にありました。「皺くちゃで腰の曲がった、髪の毛も、歯もおばあさんを抜けたようなおばあさんを、この臼の上から中に入れると、(中略)リンゴのように、ほっぺの赤い、きれいな女の子に若返って」出てくるのです。しかし、この臼に入るには条件がありました。一生のあいだに、やってきたばかげたことが、一つ残らず書きならべてある」書きつけに、その馬鹿げたことの日付を記入しなければなりません。さらに、若返った後で、あることをしなければならないのでした。それでも、あなたは若返りたいですか、というお話です。
●『小さな黒ん坊とこがね姫』
「むかし、ひとりのかわいそうな黒ん坊の少年がありました。色がまっ黒な上、きっすいの黒ん坊でないので、その色がはげるのです。いつも夕方になると、シャツの衿がまっ黒にそまりますし、おかさんがさわると、おかあさんの着ている服に、5本の指のあとが、そっくりついてしまう、というようなしまつでした」
14歳になった少年は、両親がいちばん合っていると考える、黒人であることを隠して煙突掃除屋に弟子入りします。ところが年期明けに、きれいさっぱりした格好になってみると、黒人であることがばれて、首になります。その後も、普通の職業に就こうとするのですが、うまくいきません。それでも、少年が音楽が好きでしたので、その歌声とヴァイオリンの魅力で次第に有名になります。そんな時、「神の毛も金、顔も金、それに手足までも金」でできている金のお姫さまに出会いました。
色の落ちる「中途半端な」黒人という設定がユニークですが、基本的には、人間を外見だけで判断することの馬鹿らしさを語ったお話です。
●『天国と地獄』
天国の門にお金持ちと貧乏人がやって来ました。天国の鍵を預かっているペテロは、天国で何を望むか、お金持ちに聞きました。お金持ちは答えます。
「望みのものは、皇帝陛下も持っておられないほど大きくて美しくて大きな金のご殿に、くる日もくる日も、とびきり上等のごちそう、つまり、朝はチョコレート、昼は毎日子ウシの焼肉にリンゴのサトウ煮、ミルクライスに焼腸詰、そしてデザートとして赤いプディング。これが自分の好物で、晩には日ごとちがったごちそう。それから、もっとほしいものは、うんときれいな安楽イスに、みどり色の絹のねまきで、新聞も下界のようすが知りたいから、忘れないようにしてください」
それで全部かと、ペテロが尋ねたので、お金持ちは、慌てて追加します。
「お金をおねがいいたします。それも、どっさり、あなぐらというあなぐらにぎっしりと。かぞえようにもかぞえきれないくらいたくさん!」
なんと、この要求はすべてかなえられました!ペテロは、金のご殿にお金持ちを案内すると、入口の鍵を閉めます。お金持ちは大喜びです。こうして、30年、50年、100年と過ぎます。それとて、永遠から見れば、ほんの束の間です。お金持ちは、時おり窓を開けますが、外は真っ暗で何も見えません。お金持ちは、次第に飽き飽きしてきます。こうして、1000年経った時、ペテロが鍵を開けて、ご殿にやってきます。お金持ちは、不満をぶちまけ、天国がこんな風だとは思わなかったと言います。すると、ペテロは言いました。
「どうやらおまえは、自分がどこにいるのか知らないようだ。天国にいるとでも思っているのかね?地獄にいるんだよ、おまえは。自分で地獄ゆきをのぞんだんじゃないか。ここは地獄のご殿だ」
貧乏人の方は、もちろん、天国に行っていました。なお、ペテロはペテロで、このお金持ちに蜘蛛の糸を用意してある点は、この作家らしいところでしょう。
さて、全体の印象とすると、素直な雰囲気ではありますが、単純な勧善懲悪にもなっていませんし、どこか人生の奥深さを感じさせる作風だと思います。例えば『錆びた騎士』の乞食の様子や、『小さな黒ん坊とこがね姫』の黒人の苦労など、実人生の辛さもしっかり描いているからでしょう。そして、無邪気という言葉は似合わないのですが、希望も捨てていませんし、ひねくれてもいません。これらには、やはり、戦争の現場を見た直後に書かれたお話集ということがあるような気がします。
訳者は、創作童話の世界ではレアンダーはアンデルセンに引けをとらないとしています。それについて何か言えるほど、私はアンデルセンを読んでいないのですが、日本の読者にはあまり知られていないのが残念な本ですし、作家だと思います。
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