著者は全編を通し、執拗に、そして感情的に非難の矛先を、関東軍の
「辻政信」個人に向けている。
これには最初、違和感を持った。
当時、満州国とモンゴル(当時ソ連の衛生国)の国境は曖昧。
満州国(日本)が旧ロシアの古地図を根拠にハルハ川を境界としていたのに対し、モンゴル側は昔からの羊の放牧地は当然自分たちの土地という意識だった。
この住民レベルの紛争に、
辻政信を中心とした陸軍大学出の関東軍のエリート層が、
これをネタに軍を出してソ連軍をやっつけたら、俺たちヒーロー
的なノリで介入。
1939年5月、二週間ちょっとの第一次ノモンハン事件は、ソ連軍の規模が想定外だったものの日本側の航空機部隊の頑張りで痛み分けに終わる。
ところが6月、ソ連はエース、ジューコフ少将(当時)を立て、フルスペックで再度戦端を切ってくる。
これが第二次ノモンハン事件。
この時点でモスクワで大量の機甲師団が列車で東に輸送されてゆくのを見ていたソ連駐在武官、土居大佐が、直に辻参謀に警告するのだが、
「今日のような弱音を吐くようでは土居さんの命は危ない」
と返す辻。
一連の戦いで最終的に両軍の死傷者数は4万人を超える。
ただソ連側が世界戦略の一環と位置付け、あらかじめ鉄道による750キロの補給線を確保し、装甲の厚い最新の戦車などを大量輸送できる体制を作っていたのに対し、関東軍の戦車は旧式なうえ、第二次ノモンハン事件になるとそれすらなしで一般の兵士は戦わされている。
そしてこの関東軍を管理する大本営は彼らを制御し切れない。
大本営は大本営で中国に爆弾を抱えていた。
当時日本軍は中国で連戦連勝だったとはいえ、広大な中国大陸のなかのいくつかの点を押さえていただけ。
中国での権益が拡大するに従い、それを奪われつつあるイギリスとの対立が深まる。
6月には反日テロの殺人事件容疑者が天津のイギリス租界に逃げ込み、犯人引渡しをイギリス側が拒絶、日本軍が外部封鎖する天津事件が起こる。
背景には蒋介石に支援を続けるイギリス、アメリカと日本の対立があり、日本陸軍は、ヨーロッパでイギリスと対峙し、ソ連にもにらみを利かせられるドイツと同盟を結びたい。
そのためイギリス憎しの国内世論誘導が行われたのだろうと著者は言う。
そしてノモンハン。
異状なのが部隊の大部分が死傷し、撤退の判断を下した何人かの参謀が辻の命令で自刃させられていること。
反乱を起こしたわけでもない、前線を知る熟練の兵士を自刃させることは戦略面からもありえず、これは自分のストレスを抵抗できない部下に向ける、卑小サラリーマンの発想ではないか。
特定の分野で有能だったからその後のマレー、ポートモレスビー、ガダルカナルに参謀として従軍できたのだろうが、このレベルの人物を指導者としてずっと前線に置いた国ゆえの敗戦だったかも。
ノモンハン事件はスターリンにとっては東側の憂いを断ち、西側のドイツ~東ヨーロッパに専念できるようになり、満州国~中国大陸と国力を超えて版図を拡大していた日本は、滅亡の南進論を選んでしまう。
ヨーロッパでスターリンとのにらみ合いが続いていたヒトラーはイタリアとの軍事同盟に、対ソ連対策の意味でも早期に日本を加えたかった。
煮え切らない日本の態度に業を煮やし、なんと一時的にソ連と手を結んでしまう(独ソ不可侵条約締結)。
史実ではその後、すぐに独ソ戦が始まるが、当時の平沼内閣は
「欧州は複雑怪奇」と言い残し、7月に総辞職し、同時にドイツとの同盟に反対の海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六が政務から外れる。
昭和天皇もドイツとの同盟に反対だったというが、大きな歴史のうねりは如何ともし難かったのだろう。
ノモンハンで圧倒的な機甲戦力でソ連軍が関東軍を圧倒し始めたこの時期、モスクワでソ連のモロトフ外相と日本の東郷大使の間で停戦の話し合いがなされていた。
そして9月15日、スターリンの一声でノモンハンの戦いは停戦となるが……。
なんとその翌々日、9月17日にはソ連軍はポーランドに侵入するのだ。
日本軍と同程度の犠牲を払いながらも世界視野で作戦を遂行していたソ連にとって、ノモンハンは以後の第二次大戦を通してみても戦略面での意義が大きな戦いだったのかもしれない。
皮肉なことに、読んで心に響いたのは戦後ソ連軍の元帥となったジューコフ少将のことば。
第二次大戦で最も苦労した戦いとして彼が挙げたのは対ドイツ戦ではなく、このノモンハンで
「将校は駄目だったが、一般の兵士は頑強だった」
と述べている。
半分、辻らへの皮肉にも聞こえるのだが、稚拙な作戦により命を落とした一般の兵隊さんに合掌!
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