児童養護施設に暮らす小学五年生の集の目線で、物語は進む。
集のまわりの大人たち(施設の職員、学校担任、近所に住む大学生など)の行動の細かな描写が、11歳の子どもの目を通した姿であることを思うと、どきっとする。子どもの前で無防備な姿で登場する大人たちの迂闊さよ。見て見ぬふり。言い逃れ。
大人は、子どもを都合よくその場にいないつもりにしているのだろうけれれど、子どものほうはそうではない。
集の目のまえの大人たちの行動はグロテスクだ。
自分の隠したい嫌な部分をうまく隠して普通に暮らしているつもりの人の姿を、包み隠さず描写すると、こんなに不気味で気持ち悪いものなのか。
大人には大人の事情がある。子どもに見せてしまっているものが、とてもグロテスクだとしたら、当の大人があたらねばならない実情はその百倍グロテスクで、行き詰っている可能性はある。
それだからって、関係のない誰かを巻き込んでいいわけないけど。
でも、そのこと(いろいろなそのこと)で、集(それから親友のひじり)は怒ったり嘆いたりしないし、誰かを恨んだりもしない。抵抗しようともしない。達観のようなものがある。
だって、子どもは、何を見聞きしても、その場を自分の意志だけで立ち去ることはできないのだから。
川に流されながら、通り過ぎる風景をただ眺めている。
施設暮らしの集とひじり。身内がいないわけではない。でも、事情があって今は一緒に暮らすことはできない。何のこともない顔をしているし、実際、何かに困っているわけでもない。彼らの生活ひとつひとつが、彼らにとってはこんなにもあたりまえなのだ。
彼らの日々をスケッチするような文章は続く。
ふたりは、淀川に亀をみにいく。
日陰に人知れず咲く花を、日当たりのよいところに植え替えたいと願う。
子どもたちの周りの風景も人間関係もちっともきれいじゃない。淀んでいる。描写は気持ち悪い。
それなのに、美しいと感じる文章。
二人の少年がいる場所は、全然美しくはないのに、不思議なくらいに澄んでみえる。
集とひじりの会話を読みながら、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い出している。ふたりが、ジョバンニとカムパネルラみたいで、二人して、闇のなかを走る列車に乗っているような気がしている。
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