戦争を体験し体感した巨匠たちによる、極上のディストピアシリーズ、
「あしたは戦争」に続く第二巻は[管理社会]である。
前回と引き続き、小松左京、山野浩一、筒井康隆、星新一が登板。それから水木しげる、安部公房、式貴士、半村良、光瀬龍が参加。どうです、お好きでしょう、紳士?
題名は「暴走する正義」。いい。
私がこの言葉で連想したのは、去年(*2016.3.所謂ゲス不倫の話題)のとある芸能人の不倫騒動、に対する世間様のバッシングである。特に、確信犯ぽい男の方ではなく女の方に対するバッシングが強いのが理解できなかった。
なんでも、清純なイメージで売っていた女性だからこその反動だったようだが、何それきもちわるい。30代の女が裏表ないなんて誰が信じるの。そんなに女に聖性持たせたいなら耶蘇教に入信しろ。いまどきアイドルだって中◯しさせてるの常識だろ(じゃなきゃなんでクラミジア骨盤腹膜炎になるんだよ)
ということで、凄いね、皆さんおキレイな恋愛しかしたことないのね。相手がいる獲物に、狩を仕掛けたりしたことないのね、と心底私は皆さんに尊敬の念を抱いた。
勿論、私にはベッキーを非難する資格なぞない。
不倫は良くない。浮気は良くない。それは正論だろう。
しかし、不倫を許さない、と言えるのは不倫された妻だけではないのか。そしてその怒りは相手の女ではなく貞操を守らなかった夫にこそ向けられるべきものではないのか。
民主主義は正しい。公共の利益は何より勝る。それも正論だろう。
しかし、正論を用いる人間に、正義はあるだろうか。
正論、それは誰のためのものなのか。
それは、正論によって守られる者にとっての正義でしかない。
いくつかご紹介。
「公共伏魔殿」筒井康隆
妻が、自分に黙って公共放送の受信料を払った。
なんという馬鹿なことをと怒りに震えた男だが、ある日仕事の都合で例の公共放送の放送センターに赴かなくてはならなくなる。
其処で男が見てしまったものとは。
私は、筒井康隆のエログロナンセンススプラッタ劇場を好んではないが、尊敬している。
醜いもの、汚いもの、恐ろしいものを美しく表現する輩(例えば「壬生義士伝」の劣悪なパロディ本を出版して大儲けした右派作家のような)より、その吐き気を催す悍ましさをそのまま伝える輩の方が、信頼できるではないか。
「○○する前に、もう一度よく考えてみようではありませんか」というまとめ記事サイトもしくはN○Kおきまりの番組エンディングトークを、一種の思考停止に過ぎないと断罪する明確さに痺れた。
「処刑」星新一
男は、玉一つを持たされて処刑星に送られる。
玉に付いているボタンを押せば、水が飲める。しかし、いつまでかはわからない。
この次か、それとも1ヶ月後か、数年後かーーいつか、ある回数以上ボタンを押した時、玉の内部の超小型原爆が爆発する。処刑成立。
何度も、何度もこれが最後かもしれないと思う。
生きたいがゆえに喉の渇きがあり、その渇望ゆえに押すボタンはいつか処刑執行のボタンとなる。
いつか自分を殺す、しかしそれまでは自分を確実に生かし続ける玉。
いつしか、男の中で、玉は擬人化されていく……。
「戦争はなかった」小松左京
戦後20年を経て集まった旧制中学の同窓会。
酔った時の常として、予科練の「七つボタンは桜に碇」を歌い出した男に、仲間達は唖然とする。
彼らには、その歌が理解できなかったのだ。
そんな筈はない、お前も特攻崩れだったじゃないか、忘れたのかと問い詰めても、皆気味の悪い顔をするばかり。
何故、あの戦争がなかったことになっているのだ。
いつから世界が狂ったのか、それとも自分が狂っているというのか。
あの戦争が、あの痛烈で痛ましい精神の記録がなかったとするならば、あの日本中をひっくり返した破局がなかったとすれば、あの世界中を巻き込んだ死の連鎖がなかったとすれば、どうやって今の日本が作られたと言うのだろうか。
「戦争があったかどうかだなんて、どうでもいいじゃない」
男をなだめ、首をかしげる「善意」の人々は、現代の我々の姿である。
「闖入者」安部公房
さすが安部……という理不尽な物語。
ある夜、自分の家に一家族が闖入し、彼らは男から寝床を奪い、金を奪い、労働を要求してきた。
怒って抵抗すると、暴力を受けた上に「ファシストめ」と罵倒される。
闖入者達は言う。
ここで一つ、話し合いを設けてお互いの主張を民主主義で解決しようじゃないか。
君は我々を闖入者だという、しかし、我々は此処は我々の住居だと考えている。
さあ、多数決を採ろう。これぞ民主主義。民主主義に勝る正義はない……。
「錯覚屋繁昌記」半村良
錯覚を操ることが出来る一人の男。
いつしかその能力はとある政治団体の知るところになり、彼は自分のためではなく、国民のためにその力を振るうようになる。
しかし、彼は気づいてしまう。
みんなの為、国民の為、正義の為という前提すら、錯覚に過ぎないことに。
自分を含めて、皆、自分の為にしか生きていないのだ。
そういう風にしか、人間は生きられないのだ。
利己的な生き方はいけないと教科書は言う。
人の為に生きなさいとテレビは言う。
ならば、誰かの為という言葉を借りれば、何をしても良いのだろうか。
それでは、最大多数の最大幸福は、正義となり得るのだろうか。
「暴走する正義」
何と的確なネーミング。
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