朝ドラ「風、薫る」で、主人公たちにナースという職業につかないかと誘った大山捨松のことを知りたくて、この本を手に取りました。
彼女は、岩倉使節団の一員として明治5年(1872年)に11歳でアメリカへ渡った方です。「初の女子留学生」という公募に対して、5人しか応募者いなかったというのは、当時の日本では女子に教育を受けさせるという考え方がなかった時代ですから、しょうがないことだったのでしょう。その内2人はアメリカへ行って間もなく病気を理由に帰国し、山川捨松、津田梅、永井繁子の3人だけが留学生活を続けたのです。
アメリカでベーコン牧師宅でお世話になることになった捨松は、歳が近いアリス・ベーコンと生涯の友となりました。ヴァッサーカレッジを優秀な成績で卒業したのち、コネティカット看護婦養成学校にも短期入学しています。
ところが、明治16年(1883年)日本へ帰国してから大変なことがわかったのです。男子の留学生は政府の役人や教師などの仕事が用意されていましたが、女子に関しては何もなかったのです。国費の留学生なのに、彼女たちの能力を生かそうという考えが全くなかったというのが、当時の日本のありようでした。
当初、捨松は英語学校を作ろうという考えを持っていたようですが、彼女にはもう一つ大きな問題がありました。英語は堪能、フランス語も話せますが、日本語が苦手だったのです。
そこへ大山巌というヨーロッパ帰りの軍人から求婚されたのです。捨松のような人こそが自分の理想の妻であると言われ、結婚を決意しました。大山は薩摩、捨松は会津出身なので、日本語での会話は難しかったけれど、英語やフランス語で話し合うことができたという逸話が残っています。
自分自身が教育者となる夢は大山巌との結婚できっぱりと捨てたけれども、政府高官夫人という社会的地位が影響力を持つならば、それをフルに利用することが自分に与えられた義務であり責任であると考えていた。
結婚していない女性は社会的に認められないということをヒシヒシと感じた捨松は、ある意味、理想的な夫に巡り合えたのでしょう。巌は外国語が得意だし、料亭などで遊ぶよりも家で家族と過ごすことを好み、捨松がやろうとしていた「社会活動」に理解を示しました。それに、捨松のことを本当に愛していたのです。
女学校を作る、看護学校を作る、津田梅子が作ろうとしている英語学校の支援をする、とにかく多忙な毎日でした。しかし彼女の立場では、やたらとグチをこぼせるような相手もいません。アメリカ生活で仲良くなったアリスへの手紙が、せめてもの心の解放だったのかもしれません。アメリカで発見されたアリスへの手紙には、そんな彼女の気持ちがつづられていました。
アリスの日本に対する思いは強く、日本人留学生「一柳満喜子」を養女としていました。満喜子は日本へ帰国後、ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(近江兄弟社の創始者)と結婚しています。
この本を書かれた久野明子さんは、捨松さんの曾孫です。アメリカへ留学した時、友人から「日本の女性で最初にアメリカの大学を卒業したのはだれだったのかしら?」と問われ、「わたしの曾祖母」と答えはしたけど、細かいことは知りませんでした。改めて調べてみると、驚くことばかりでした。そしてメアリー・ベーコンとの書簡が見つかり、この本が生まれたのだそうです。
捨松は、子どもの頃の名前は咲子でした。会津藩の武士の娘だった彼女は、これまでにも死線を乗り越えてきました。遠くの国へ行く娘に対して「捨てたつもりで待つ」という気持ちで母親が付けてくれた名前だそうです。
こんなにも波乱万丈の人生を送った女性の物語が、どうして多くの人に知られずにいたのでしょうかと、思わずにいられない内容でした。
〇関連書籍
『屋根をかける人』 門井慶喜
『博物館の少女 騒がしい幽霊』 富安陽子
この書評へのコメント