本が好き!ロゴ

閉じる

それはつまり、あなたのための物語

  • イオラと地上に散らばる光
  • by
  • 出版社:KADOKAWA
イオラと地上に散らばる光
 ワンオペ育児で追い詰められ、夫の上司を刺した母親、萩尾威愛羅――イオラ。ネットメディア“リスキー”の記事がきっかけになり、彼女の話題はWEB上で是非を巡って論争を引き起こす。記事を書き、状況を過熱させた担当者岩永、スカウトしたバイトの青年“デニーズ”、岩永を慕う若手編集部員の小菅、そしてAIにアドバイスを求め対話し続けるある女性。彼らのことばと狂騒が事件をきっかけに溢れ出す。

 分量は単行本にして200ページと少しの、短めの長編作品だ。全体は5つのチャプターに分かれていて、三人の“僕”“俺”“私”が岩永清志郎との関りについて語るパート、客体として岩永が外から描写されるパートに分かれている。岩永の内面も語られるけれど彼自身の肉声ではなく、スライドガラスの上に載せられた試料を覗くように、微細な分析の対象とされる。
 インプレッション稼ぎを至上命題とし、無責任に対立を煽ろうが他社の記事をパクろうが身分を詐称して特ダネを拾おうがまるで気にしない、ネットメディアに最適化されたこの岩永という人物が一応の主人公といえるのかもしれない。ある面から見れば、岩永は同僚から信頼される有能な編集者であり、社内政治も上手く泳ぎ渡ることのできる如才ない会社員であり、育児参加も進んでする良き家庭人であり、と非の打ち所がない完璧超人だ。
 だが、岩永が記事にしたイオラのように、逆恨みとも思える凶行に走らざるを得ないまでに追い詰められる人間がいる一方で、彼のように一見現代社会に上手く適応したかに見える人々が何故存在し得てしまうのか。いや彼らは単に自らの抱える歪みに無自覚なだけではないのか。誰かから押し付けられた歪みを自分より立場の弱い他者に暴力的に押し付けることで解消し何事もないかのように振舞っているだけではないのか――彼らは、もしかしたら、わたしたちは。
 チャットAIとの対話シーンは本作中でも屈指の印象的な場面だ。AIの提供する言葉は過不足がなく、相談者への配慮や現代的なバランス感覚も行き届いている。で、あるにも拘らず、そこにあるのは同時にひどく表層的で、思いやりの真似事、寄り添うことの真似事、相談者が飲み込みやすい言葉を巧妙に組み合わせているだけの空疎な説得力、でしかない。際限のない愛想の良さはどこかの段階で不気味の谷に入り込む。これはAIの不気味さだけではない。AIのような言葉が蔓延し、形式的な“それらしさ”だけが伝言ゲームのように誰に信じられることもなく広がっていく現代の似姿でもある。
 登場人物たちは皆、何かに追い立てられるようにして息苦しい日常を生きている。イオラの事件は彼らが語り始めるためのきっかけであり、やがては別の話題へと忙しなく移っていく。だがそれを、大衆が気まぐれに“事件を消費した”とシニカルに語ることをこの物語はしない。変化の予兆はあり、小さな希望として残される。
 わたしたちの住む社会が、ゆっくりと崩壊していく軋みの音を正確に聴き取った秀作だ。
  • 献本書評  本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント
  • 掲載日:2026/01/15
投票する
投票するには、ログインしてください。

この書評の得票合計:12

読んで楽しい:1票
参考になる:11票
あなたの感想は?
投票するには、ログインしてください。

この書評へのコメント

  1. Taylor2026-01-15 16:31

    読んでいるだけで現代社会の光と影が鮮明に浮かび上がる作品だと感じました。特に印象的なのは、岩永のように表面的には順応している人と、イオラのように追い詰められる人との対比を通して、人間の「歪み」がどのように社会の中で作用するかを描いている点です。また、AIとの対話シーンから見える「思いやりの模倣」と現実世界の言葉の空疎さの連動にはゾクリとしました。ここから現代の情報社会における人間関係や共感のあり方について考えさせられます。質問ですが、こうした登場人物たちの「表層的な適応」と「内面的な葛藤」を描く手法は、読者に社会の何を最も考えさせようとしていると思いますか?

No Image

コメントするには、ログインしてください。

イオラと地上に散らばる光 の書評一覧

取得中。。。