686 ローベルト・ゼーターラー 「名前のないカフェ」
カフェを開いて働く男と、その周り人たちの話。
地味な演出だが、かえって私たちのそばにもある「輝き」を、強く気づかせてくれた。
31歳のローベルト・ジーモンが、戦争未亡人の家に同居するアパートから、市場へ向かっている。
1966年、戦争孤児のジーモンは31歳。
もう7年程、ウィーン最大の市場Naschmarktで、店々から頼まれる日雇いの仕事で凌いでいた。
かつての市場カフェのガラスに頬をくっつけ、目をぎゅっと細めて、なかを覗き込む。
翌朝、ジーモンはカフェの建物のオーナーであるヴァヴァロフスキと、このカフェの賃貸契約を交わす。
店を開けると、十分もしないうちに最初の客がやってきて何があるか、と尋ねる。
「コーヒー。レモネード。ラズベリーソーダ。
ビールと、それからワインはシュタマースドルフ産とグンポルツキルヘェン産、赤も白もあります。
食べ物は、ラードを塗ったパン、玉ねぎ添えでも、なしでも。
それに新鮮な塩漬けキュウリと、塩味のスティック」
カフェは、市場とその周りの人たちで賑わうようになる。
そして、小さな出来事が起こり始める。
どんな出来事なのかは書かないが、私たちも見かけたり、そばで起こったりするような事だ。
それらがドラマティックでも無く、淡々と描かれているのだが、
だからこそ「あっ」と輝くところに気づいたり、「う~ん」と唸ったりしてしまう。
そして、私たちの近くの人、私たちにも、そうした輝く瞬間があったという事、
一方でちゃんとできなかった事も、想い起こすことになる。
ジーモンの性格も抑えめに描かれている。
出来事の中には、ジーモンにとっては「災厄」としか言えない酷い事があるのだが、
ゼーターラーの筆は、そのエピソードでもぶれずに淡々と進んでいる。
逆に、ジーモンがその事に大きくショックを受けなかったこと、わざわざ書くほどだ。
しっかりしたジーモンにも、悔やまれる事が描かれている。
「そこまでできなくても、しょうがない」と私なぞは感じるのだが、
相手が人生をゴロンゴロンと、ゆっくり転がり落ちていった事に、後で気づくのは確かに辛いよね。
書かないとしたが、一つだけエピソードを。
冬場にカフェの客が減ることを、ジーモンが大家のマルタ・ポール未亡人にこぼす。
メニューを聞いた後に未亡人が尋ねる。
「パンチはある?」
「いや」
「パンチは必要よ」「パンチのない冬なんて、本当の冬じゃないわ」
「でもそんなパンチ、どこで手に入るんですか?」「俺にはパンにラードを塗るしかできないんですよ」
「それなら私が教えてあげる」「作り方を覚えちゃえば、なんでもないことよ」
パンチとは、ドイツ圏で冬に飲まれるホットワインで、ワインにシナモンやローリエなどの香辛料や、
アップルなどの果汁とお砂糖を入れて作られる(写真添付)。
かくして、パンチとパンチ付定食を加えたジーモンの店は、続けられることになった。
店の大家の不手際でビルが債権者に渡り、立ち退きを余儀なくされてしまった後のジーモンの選択(の一つ)も大変良い。
彼が何をする事にしたかは、本の中で見てもらおう。
本著の中を通り過ぎると、はっきり書かれていた訳ではないのに、
自分の中にこれから残り、少し自分を変えてくれるかもしれないものを、見つけられるかもしれない。
説教臭くなるので、いちいち書かないが。
思い出したのは、同じ年齢の立川談笑師匠のこと。
2021年に甲状腺乳頭がんの手術を受け、他の疾患でも不自由が続くなか、高座に上がり続けている。
彼のXのツィートの最後に、同じ文句が現れることに、1年くらいして気が付いた。
「生きてるだけで丸儲け」
そうだね~、師匠。
日々何でも、受け止め方次第だ。
最後にもうひとつ。
毎日休まず店を開け続けていたたジーモンが、熱をだす。
店をミラに任せ、ポール未亡人の看護を受け、数日寝続けて治った。
病み上がりにお茶を貰いながら、未亡人と他愛ないお喋りをしている。
壁紙を取り換えるべきかなと言う未亡人に、俺が貼り換えます、何ならこの週末に、とジーモンが返す。
未亡人はうなずいた。その視線が再び壁に向けられた。
「あの壁紙、もう古いのよ」未亡人が言った。
「でもね、朝早くに日の光に照らされると、起伏がすごく繊細なのがわかるの。
いまでもまだ綺麗だと思わない?」
そう、私たちも遠目には古びた、目立たない壁紙の模様のたった一つなのかもしれない。
でも光をあてられたなら、繊細であると伝わることがあり、
そして、いまでもまだ綺麗なのかもしれない。
原題は「Das Cafe onne Namen」
(2026/4/10)
【新潮クレストブックについての、長いあとがき】
本著は新潮クレストブックの新刊で、手に取った。
クレストブックは信頼できるので、たびたびリストを見返している。
「外れ」が少ないのだ。
(以降ChatGPTより)
1998年に刊行開始されて、現在まで131冊。
初期(1998〜2005年頃)のタイトルにロングセラーが多い。
ベスト10を挙げさせたら、下記だった。
『朗読者』*
『パイの物語』*
『停電の夜に』*
『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』
『シンプル・プラン』*
『リトル・スター』
『さようならコロンバス』
『パリの灯は遠く』
『わたしを離さないで』*
『紙の動物園』
*ChatGPTの「60代読者へのお勧め5選」
上記以外で、私が読んで良かったものは以下。
本著者の『ある一生』は手元に来たことがあったが、読みそびれている。
『フォンターネ 山小屋の生活』
『帰れない山』
『誰もいないホテルで』
『煉瓦を運ぶ』
『屋根裏の仏さま』
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