そういえば、「花」は武島又次郎作詞に滝廉太郎作曲、「砂山」は北原白秋作詞に中山晋平と山田耕筰の作曲の2パターン…などと知られているのに、「故郷」の作詞作曲家は知られていない。
「故郷」だけではない。
「われは海の子」「紅葉」「かたつむり」「春がきた」「茶摘」「春の小川」「朧月夜」なども作詞作曲家は知られていない。
これらは全て文部省唱歌であり、著作権は文部省が所有しているからだ。
文部省唱歌のなかには、時勢の為に時代の波に埋もれていったものも多いが(「天皇陛下」や「靖国神社」など)、これらの自然を謳った唱歌は生き残った。
それはあたかも、明治維新以降に人工的に作られたナショナリズムは戦火によって焼き尽くされたが、日本古来の自然や精神は滅びなかったことの象徴のようで、個人的には非常に気分が良い。
猪瀬直樹は「昭和16年夏の敗戦」などのノンフィクションで定評のある作家だ。
この本は、唱歌を作詞作曲した明治の青年たちの姿を追う群像劇である。
中心は、高野辰之と岡野貞一。
高野は向学心に燃えて故郷信州をとびだしたが、志やぶれ文部省の下級官吏となった。
岡野は鳥取の没落士族の家に生まれ、貧窮の果てに教会に救われ、讃美歌との出会いから音楽を志した。
この歴史に埋もれた作詞家・作曲家は、上記にあげた「故郷」はじめ多くの唱歌を世に生み出していく。
彼らは、何を思い何を願ってこれらの歌を生み出したのか。
唱歌は、明治という時代の落とし子だ。
唱歌の目的は「日本語の統一」、そして「価値観の統一」だった。
言葉の統一、それは国の統一でもある。
明治という時代は、新しい物が生まれた時代であったが、また多くの物を失った時代でもあった。
それまで彼らの「主人」であった藩主は「国」を捨てて上京し、立身出世の志ある者も皆東京を目指した。
新たに「大日本帝国」という「国」を押し付けられ、「天皇」という雲の上の存在であったモノを「主人」として敬うよう強いられ、日本人は共通して「故郷」と「お国ことば」と「主」とを失った。
志を果たして いつの日にか帰らん
山はあおきふるさと 水は清きふるさと
その故郷は、もう、何処にもないのだ。
いや、もしかしたら、最初から何処にもなかったのかもしれない。
***
しかし、猪瀬さんには悪いが、今更そんな歴史的背景は、実はどーでもいいのだ。
わたしは、「君が代」より余程「故郷」に何か--嫌いな言葉だが、敢えて言うならばナショナリズムか--を刺激される。
わたしだけではない。
3.11の後、外国で催されたとあるチャリティーコンサートで一番最後にこの歌が歌われた。客席の日系人からも歌声があがり、それらは全て隠しようもなくふるえていた。
きっと、おそらく誰も山で兎を追ったことはないし、川で小鮒を釣ったこともないだろう。
たとえ「故郷」がカナンのような幻の地を謳った歌であろうとも、この歌には確かに心震わす何かがある。
高野辰之と岡野貞一。
彼らは確かに文部省に利用され、功績を奪われたのかもしれない。
しかし彼らの名が消えても、文部省がなくなっても、そしてきっと日本という国が消えても、この歌は死なない。
きっと人類が宇宙に居を移しても、日本語を母語とする者は、この歌を歌っているのではないだろうか。
あおい青い幻の地球を想って。
(その頃はイスカンダルにコスモクリーナー取りに行かなきゃいけないくらい赤い地球になってるかもしんないけどねっ)
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