すずはら なずなさん
レビュアー:
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特殊で異様な状況も、戦後すぐの時代だからこその光景も、置き換えてみれば今につながる。人の残酷さ、身勝手さ、卑屈さ、弱さ。手放しで責められないのは どこかにそんな「自分」も居るのだという思いがあるからだ。
「死者の驕り」、「他人の足」、「飼育」、「人間の羊」、「不意の唖」、「戦いの今日」。
内容の濃い6編が一冊になって、息をつかせない。
作者のごくごく若い時(「死者の驕り」は大学生の時)の作品だという。昭和32年から33年に「文学界」や「新潮」に発表されたもの。
高額なアルバイトに、こんなのがあるんだって、と昔 誰かに聞いたことがあった。医学部の教材用の死体をアルコールにつけてある水槽で時折 彼等をつついてひっくり返すという。その時どんな感想を抱いたかも忘れたけれど、「死者の驕り」ではその水槽のある場所が舞台となっている。
寒々とした空気、緊張感が読み手に伝わってくる。それよりも冷え冷えとした主人公たちの心の動き。
金額に魅力を感じてアルバイトに応募した文学部の学生の主人公と、女子学生、そしてそこの管理人。仕事は新しい水槽に「彼等」を移し替え、記録し、札をつけるという作業だ。
女子学生との僅かばかりの会話で、彼女が望まぬ妊娠をし、堕胎手術の費用を必要としていることが解る。
ぬめる床、匂い、死体の様子などに彼らが徐々に慣れ、管理人とも、その私生活などについて 一日作業をするうちに語るようになっていく。
作業の必要性を感じ、管理人と共に仕事としてそれなりの重みのようなものまで感じ、連帯感と責任感、手際よく仕事をこなせる誇りのようなものさえ芽生えた矢先、やって来た教授がそのバランスをゆがめる。
「何でこんな仕事をするのだ」と。
その作業をする人が居るから 自分は研究ができるのではないか。教授の示す優越性がどこにでも在る人の差別意識を感じさせる。水槽にいる「彼等」に差はないはずなのに。
それでも 学生は「新しい死体」を選び、深く沈んだ古い死体はますます顧みられなくなっていく。
ネタばれになるが、物語はそれらの作業が全て「徒労」に終わったという なんとも皮肉などんでん返しで幕を引く。不毛な重労働の後には 火葬にするために外に運び出す仕事が追加され、いつ終わるとも知れない。バイト代もどこまで出るか解らない。
「他人の足」は治る希望を持たない病院生活の少年たちの物語。
閉ざされた世界で彼らなりに充足して暮らす中、「外」を持ち込んだ大学生の新入り。
彼らに政治や世界に関心を持たせ、働きかけることで新聞にも掲載されるまでに変化は起きる。
けれど 大学生の治癒の様子がまた、彼らと「彼」の世界を分け隔ててしまう。
……という話だけれど、いつの間に大学生の「彼」が回復の見込みを得て、手術したのか 快方に向かっていたのか、読み返しても解らなかった。
どこか読み落としたのだろうか。そこは想像しないといけないのだろうか。「ひとりだけ治る見込み」があったのは「自殺未遂の少年」で、手術を受ける決心をやっとしたのも その少年だったように読んだのだけれど。
「飼育」
米軍機が墜落して パラシュートで黒人兵が 村に降りて来る。「上」から処分のお達しが来るまで、村で彼を預かることになる。
彼らの暮らしぶりはとても貧しい。住処の様子、食事の様子などの細かな描写は家族で生きるぎりぎりの生活のようだが、語り手で主人公の「僕」が、それを当たり前のものとして暮らしているため、悲壮感はない。鼬を捕らえて捌く父親の、仕事の手際の良さを誇り、弟と寒さをしのぐために寄り添って暖を取る様子は そんな日常を受け入れ、愛しているようにも思える。
それでも「町」へ出ると、そこの暮らしとは格段の差が存在することが解る。「文化」とか「進歩」とか 綺麗ごととは切り離され見下された村だ。
子供たちは、初めて見る黒人に興味津々だ。主人公の「僕」の住む場所の地下が「牢」となったため、黒人兵の世話を彼がすることになる。子供たちにとって彼は珍しい「生き物」で、大事に世話をし、観察する対象だ。「僕」は優越感を十分に感じながら「それ」を見守り、食事を運び、用を足したの樽の世話をする。
徐々に近づくうち、「それ」が危険なものではなく、鍛冶屋の道具を上手く使って猪の罠を修理できたり、義足を治したりもできることを知るのだ。
会話こそ通じないが、互いに気を許していくうち、村の大人たちも彼の拘束を緩め、出歩くことさえ気にしなくなる。
子供たちと触れ合い、水遊びに興じる様は 不思議と明るい 牧歌的で幸せな光景だ、
急展開を見せるのは 黒人兵の移送が決まったことを聞いた主人公の少年が慌ててそれを告げに行ったとき。迫って来る大人たちに対し彼が 少年を囮にしたことだ。少年が身の危険を感じるのに大人たちは迫って来る。少年の心には黒人兵への恐怖と大人たちへの不信が渦巻き、そこにはもう救いが無い。少年の親は少年の手もろとも黒人兵の頭に鉈を叩きつけるのだ。
黒人兵は死に、またその処分の回答待ちの日が続く。
子供たちは壊れた機体の部分をそりにして草地を滑って遊ぶけれど、もう少年は仲間には入らない。
「町」から来た義足の小役人が彼に義足を託して そり遊びに参加したのは何故だろう。戻ったはずの牧歌的な風景に、唐突に新たな「死」が加わる。
言葉は通じなくともやがて人間同士と認め、繋がりや交流が描かれていくのかと思わせての 意外な結末に、単純な甘さを寄せ付けない怜悧な目線を感じる。
「人間の羊」は占領下の日本人がバスの中で外人兵に辱めを受ける話。屈辱的な姿勢を取らされあざけられた一部の乗客と その他の傍観者。警察に行って訴えましょうと言う「傍観者」の代表と「被害者」の主人公の埋まらない溝。
「加害者」が無謀な若者や優越を感じる集団に置き換えれば 今の世の中にもありそうな物語。
受けた屈辱の時間を蒸し返し、世に問えと端から言われても、頑なになってしまう気持ちが痛いほど解る。
「不意の唖」は外国兵たちが村にやって来て休息する間に起こった事件。威張った態度の「通訳」の靴が無くなり 犯人探しをさせられる。村の長である主人公の父親は問い詰められ、非難されるが……。理不尽な抑圧や優越感への抵抗、そして静かな報復の物語。
最後の「戦いの今日」を含め、どれも時代が色濃く反映していて、戦時中や占領下の日本の様子を描いているけれど、人の心の暗い部分、重い部分、それに対する気持ちは、いつの時代でも通じるものと思う。
いつか読もうと思いつつ、ずっと置いていた。本作。やたら難しい表現や解りづらい文体を想像していたが、決してそんなことはない。読んで良かったと思う。
内容の濃い6編が一冊になって、息をつかせない。
作者のごくごく若い時(「死者の驕り」は大学生の時)の作品だという。昭和32年から33年に「文学界」や「新潮」に発表されたもの。
高額なアルバイトに、こんなのがあるんだって、と昔 誰かに聞いたことがあった。医学部の教材用の死体をアルコールにつけてある水槽で時折 彼等をつついてひっくり返すという。その時どんな感想を抱いたかも忘れたけれど、「死者の驕り」ではその水槽のある場所が舞台となっている。
寒々とした空気、緊張感が読み手に伝わってくる。それよりも冷え冷えとした主人公たちの心の動き。
金額に魅力を感じてアルバイトに応募した文学部の学生の主人公と、女子学生、そしてそこの管理人。仕事は新しい水槽に「彼等」を移し替え、記録し、札をつけるという作業だ。
女子学生との僅かばかりの会話で、彼女が望まぬ妊娠をし、堕胎手術の費用を必要としていることが解る。
ぬめる床、匂い、死体の様子などに彼らが徐々に慣れ、管理人とも、その私生活などについて 一日作業をするうちに語るようになっていく。
作業の必要性を感じ、管理人と共に仕事としてそれなりの重みのようなものまで感じ、連帯感と責任感、手際よく仕事をこなせる誇りのようなものさえ芽生えた矢先、やって来た教授がそのバランスをゆがめる。
「何でこんな仕事をするのだ」と。
その作業をする人が居るから 自分は研究ができるのではないか。教授の示す優越性がどこにでも在る人の差別意識を感じさせる。水槽にいる「彼等」に差はないはずなのに。
それでも 学生は「新しい死体」を選び、深く沈んだ古い死体はますます顧みられなくなっていく。
ネタばれになるが、物語はそれらの作業が全て「徒労」に終わったという なんとも皮肉などんでん返しで幕を引く。不毛な重労働の後には 火葬にするために外に運び出す仕事が追加され、いつ終わるとも知れない。バイト代もどこまで出るか解らない。
「他人の足」は治る希望を持たない病院生活の少年たちの物語。
閉ざされた世界で彼らなりに充足して暮らす中、「外」を持ち込んだ大学生の新入り。
彼らに政治や世界に関心を持たせ、働きかけることで新聞にも掲載されるまでに変化は起きる。
けれど 大学生の治癒の様子がまた、彼らと「彼」の世界を分け隔ててしまう。
……という話だけれど、いつの間に大学生の「彼」が回復の見込みを得て、手術したのか 快方に向かっていたのか、読み返しても解らなかった。
どこか読み落としたのだろうか。そこは想像しないといけないのだろうか。「ひとりだけ治る見込み」があったのは「自殺未遂の少年」で、手術を受ける決心をやっとしたのも その少年だったように読んだのだけれど。
「飼育」
米軍機が墜落して パラシュートで黒人兵が 村に降りて来る。「上」から処分のお達しが来るまで、村で彼を預かることになる。
彼らの暮らしぶりはとても貧しい。住処の様子、食事の様子などの細かな描写は家族で生きるぎりぎりの生活のようだが、語り手で主人公の「僕」が、それを当たり前のものとして暮らしているため、悲壮感はない。鼬を捕らえて捌く父親の、仕事の手際の良さを誇り、弟と寒さをしのぐために寄り添って暖を取る様子は そんな日常を受け入れ、愛しているようにも思える。
それでも「町」へ出ると、そこの暮らしとは格段の差が存在することが解る。「文化」とか「進歩」とか 綺麗ごととは切り離され見下された村だ。
子供たちは、初めて見る黒人に興味津々だ。主人公の「僕」の住む場所の地下が「牢」となったため、黒人兵の世話を彼がすることになる。子供たちにとって彼は珍しい「生き物」で、大事に世話をし、観察する対象だ。「僕」は優越感を十分に感じながら「それ」を見守り、食事を運び、用を足したの樽の世話をする。
徐々に近づくうち、「それ」が危険なものではなく、鍛冶屋の道具を上手く使って猪の罠を修理できたり、義足を治したりもできることを知るのだ。
会話こそ通じないが、互いに気を許していくうち、村の大人たちも彼の拘束を緩め、出歩くことさえ気にしなくなる。
子供たちと触れ合い、水遊びに興じる様は 不思議と明るい 牧歌的で幸せな光景だ、
急展開を見せるのは 黒人兵の移送が決まったことを聞いた主人公の少年が慌ててそれを告げに行ったとき。迫って来る大人たちに対し彼が 少年を囮にしたことだ。少年が身の危険を感じるのに大人たちは迫って来る。少年の心には黒人兵への恐怖と大人たちへの不信が渦巻き、そこにはもう救いが無い。少年の親は少年の手もろとも黒人兵の頭に鉈を叩きつけるのだ。
黒人兵は死に、またその処分の回答待ちの日が続く。
子供たちは壊れた機体の部分をそりにして草地を滑って遊ぶけれど、もう少年は仲間には入らない。
「町」から来た義足の小役人が彼に義足を託して そり遊びに参加したのは何故だろう。戻ったはずの牧歌的な風景に、唐突に新たな「死」が加わる。
言葉は通じなくともやがて人間同士と認め、繋がりや交流が描かれていくのかと思わせての 意外な結末に、単純な甘さを寄せ付けない怜悧な目線を感じる。
「人間の羊」は占領下の日本人がバスの中で外人兵に辱めを受ける話。屈辱的な姿勢を取らされあざけられた一部の乗客と その他の傍観者。警察に行って訴えましょうと言う「傍観者」の代表と「被害者」の主人公の埋まらない溝。
「加害者」が無謀な若者や優越を感じる集団に置き換えれば 今の世の中にもありそうな物語。
受けた屈辱の時間を蒸し返し、世に問えと端から言われても、頑なになってしまう気持ちが痛いほど解る。
「不意の唖」は外国兵たちが村にやって来て休息する間に起こった事件。威張った態度の「通訳」の靴が無くなり 犯人探しをさせられる。村の長である主人公の父親は問い詰められ、非難されるが……。理不尽な抑圧や優越感への抵抗、そして静かな報復の物語。
最後の「戦いの今日」を含め、どれも時代が色濃く反映していて、戦時中や占領下の日本の様子を描いているけれど、人の心の暗い部分、重い部分、それに対する気持ちは、いつの時代でも通じるものと思う。
いつか読もうと思いつつ、ずっと置いていた。本作。やたら難しい表現や解りづらい文体を想像していたが、決してそんなことはない。読んで良かったと思う。
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電車通勤になって 少しずつでも一日のうちに本を読む時間ができました。これからも マイペースで感想を書いていこうと思います。
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- 出版社:新潮社
- ページ数:270
- ISBN:9784101126012
- 発売日:1980年05月03日
- 価格:460円
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