もう随分昔のことになるが、学生時代に受けた心理学の講義で「アイヒマン実験」にふれたことをきっかけに、ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(旧版)を読んだ。
そういうきっかけだったせいもあるのだろう。
ミルグラムの実験はまさに、アイヒマン裁判を傍聴したアーレントが導き出した結論……アイヒマンを世間が言うような世紀の極悪人ではなく、特別優秀なわけではないが、常に自分を大きく見せたがる見栄っ張りで、そのくせ上からの命令には従順などこにでもいそうな小心者の小役人に過ぎなかったというその結論……を、裏付けているように思われて、深く記憶に刻まれたのだった。
ここに、一人のドイツ人哲学者がいる。
ベッティーナ・シュタングネト。
カントと根源悪についての研究で博士号を取得したこの哲学者は疑問を抱く。
アイヒマンは本当に凡庸で従順な男だったのか。
膨大な資料を読み込んで執拗なまでにアイヒマンの過去を洗い出すのが、歴史学者でも心理学者でもなく、アーレントと同じ哲学者であるという点は非常に興味深い。
シュタングネトはいう。
一九六三年の『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』以来、アドルフ・アイヒマンについて語る試みは何であれすべて、ハンナ・アーレントとの対話でもあった。と。
エルサレムでアイヒマン裁判を傍聴するずっと以前から、アーレントはアイヒマンに関心を寄せていた。
アイヒマンのことを“あの連中のなかでは最も聡明な人物の一人”であり、彼を理解しようとする者はナチ犯罪を理解するに当たって決定的に一歩先に進むであろうと考えていたのだ。
けれども実際にエルサレムで目にしたアイヒマンの姿は、アーレントを苛立たせた。
かの男は“貧弱な人物で、哀れっぽい長広舌をふるい、強制された命令や軍旗への誓いに縛られていたことについて喋り立て、人々の気持ちを萎えさせた”。人々が悪魔と聞いて様々な形で思い浮かべるようなカリスマ性など備えてはいなかったというのだ。
当時、ホロコースト研究はまだはじまったばかりで、記録文書は少なく、被告人から新たな情報を得たいという願いの方が、用心しなくてはという気持ちを上回っていた。
アーレントは理解するために“理解されたいと願う者だけが書き、話すのだと仮定して”徹底的に尋問と裁判の調書を読み込んだ。
「それこそが罠だった」のシュタングネトはいう。
「エルサレムのアイヒマンは仮面以上のものではなかったから」と。
シュタングネトはそうした前提にたって、当時、アーレントがその存在は知っていても実際に目にすることが出来なかった資料や、現在は公開されているが当時はその存在すら明らかにされていなかった機密文書など、膨大な資料を丹念に読み込んでアイヒマンの実像に迫っていく。
結果書き上げられたのが、主な登場人物紹介に3ページ、本文だけで577ページ、日本の読者に向けたメッセージに4ページ、おそろしく細かい字でかかれた人名索引と註釈に95ページをさいたこの大作というわけだ。
正直にいうならば、読み始めてしばらくは、著者がなぜこれほどまでにアイヒマンにこだわるのかがわからなかった。
アイヒマン一人に焦点を当てすぎれば、逆に「ユダヤ人問題の最終解決」の本質が見えにくくなってしまうのではないか、という疑念もあった。
苦悩、侮辱、喪失を経験する者は、その上自分を、凡庸な人物の犠牲者だとは思いたくない。役立たずに暴力を振るわれたと考えるのは、単に誰かに暴力を振るわれたという事実よりもずっと堪え難いからである。(p58)
アイヒマンが決して居合わせなかったはずの場所で彼を見たという者が大勢いるのはその結果で、それはまさに願望の投影であるから、それだけでも彼がただ者ではなかったことは明らかだと、著者は分析しているのだが、そうであるなら同様に、多くの人々が犠牲となった死の行進を指揮した人物が、ただの人であって欲しくはないという気持ちが、歴史を検証する側にもあるのではないかと思ったりもした。
けれども、戦後アイヒマンが戦争捕虜収容所から逃亡し、北ドイツで営林署に勤めたり養鶏業を営んだり、アルゼンチンで表面的には偽名をつかいつつも、自分があのアイヒマンであることも、自らがしてきたことも隠そうとしないばかりか、誇りながら暮らしているその様子を、証拠をあげて目の前につきつけられていくうちに、著者が明らかにしたかったのは、あくまでもアイヒマンその人の人となりであったことをようやく理解する。
その上で、彼を取り巻く人々が、ある者は自分の罪の軽減を図るために、ある者は自分が望む「真実」を明らかにしたいがために、またある者はひと儲けを企んで、アイヒマンを利用しようとし、そうした人々とアイヒマンその人の言動が絡み合い、すれ違い、反発し合うとき、そこに浮かび上がるってくるものが確かにあって、それは、見たいようにしか見ない、読み取りたいようにしか読まないといったことを含めた人間のエゴであったりもし、同時に幾重にも張り巡らせれ絡み合う政治的な思惑であったりもする。
エルサレム<以前>のアイヒマンを明らかにすることは、エルサレム<以後>に明らかになったあれこれをもって、歴史を再検証すると同時に、エルサレム<以後>の国民社会主義の動向を分析することでもあったのだ。
とはいえ、ドイツには今なお、開示されない機密文書もあるというし、本書もやはり現時点での到達点でしかなく、いずれまた明らかにされていくこともあるのかもしれない、とも思う。
決して楽しい話題の本ではないが、読み応えのある1冊。
おかげで私はまたまた読みたい本のリストを長くのばしてしまった。
尚、今回私は、ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】』の延長上で、この本を手にしたのだが、アルゼンチンでイスラエルの諜報機関に拉致されるまで、いかにしてアイヒマンが逃げおおせていたのかという点では、その逃走手段や各国の諜報活動の実態をふくめスリリングな実話としての読み応えもあり、そうした方面からのアプローチもまた興味深いかもしれない。
本も食べ物も後味の悪くないものが好きです。気に入ると何度でも同じ本を読みますが、読まず嫌いも多いかも。2020.10.1からサイト献本書評以外は原則★なし(超絶お気に入り本のみ5つ★を表示)で投稿しています。
この書評へのコメント
- かもめ通信2021-07-01 10:58只今「祝 #みすず書房 #創業75周年 読書会」開催中! 
 9月末までの予定でのんびりやっていますので,
 皆様,ぜひお気軽にご参加ください。
 
 https://www.honzuki.jp/bookclub/theme/no399/index.html?latest=20クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。
- toribakohouse2021-07-01 12:57なかなか読み応えがありましたね。 
 それにしても大変な書評お疲れ様でした!
 
 なんとなくですが、以前いたところで上からの無理な指示に従わざるを得ない気の毒な、いつも「すいません」が口癖の人がいたんですが、その人が目の前を横切った猫をいきなり蹴り飛ばしたことがあって、やっぱり人間ってわからんもんだよなとか、思い込んでいたことがひっくり返ると何か考えさせられてしまいますよね。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。
- toribakohouse2021-07-01 13:28あー、そういうこともあるかもしれませんが、私がこの人に感じたのは根っからの残虐性を秘めていたように感じた、アイヒマンも根っからの残虐性を持っていたのではないかということですね。 
 
 まあ、noelさんの書かれていることがちょうどこの話の対比となっているような感じもしますね。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。
- oldman2021-07-01 16:17いやいや プレッシャーかけてすみませんm(__)m 
 流石かもめ通信さん 予想を上回る書評に早くも財布の紐が……
 
 しかし最近思うのは「あおり運転」やら店員への「カスタマーハラスメント」がやたら目立っている様に感じます。
 伊藤計劃の「虐殺器官」では無いですが、人のどこかに「ブチ切れ器官」が有って、それが発動しているのでは無いかと思ってしまいます。
 
 皆さんの話を聞いていると、どうやら人間というのはどうしようもない業を背負って生きているのかも知れません。
 
 さて、とりあえず取り寄せをお願いしているアーレントの「エルサレムのアイヒマン」を取ってきて読もうと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。
- toribakohouse2021-07-01 18:59職場でいつも怒鳴っている人がいると、不愉快で耐え難い気持ちになりますよね。 
 この人が家庭でもいつも怒鳴っているかと思うと少しゾッとします。
 
 もっとも自分もよくプリンにイライラをぶつけてしまったりはしていますが(笑)
 果たして、プリン↔ゴミ箱↔猫↔アイヒマンに境界線はあるのか?
 
 神経科学者のジェームズ・ファロン氏は、自身の脳がサイコパスと同じパターンで前頭葉および側頭葉の共感や自制に関する箇所の活動が低いことを告白しましたが(もっとも自身が殺人を犯すこともなく、精神も安定しているとのことですが)、全員野獣の本能たるべきブチ切れ器官は持っていて、それを抑える器官がないのか?あるいはストレスで失ってしまったのか?単に一時的に活動が低くなっているのか?
 
 もともと疾患があったとしてそれは許されるのか?
 
 恐らくそういった人とも共存しなくてはならないということなのかもしれないですが難しい問題ですよね。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。
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- 出版社:みすず書房
- ページ数:688
- ISBN:9784622089605
- 発売日:2021年05月18日
- 価格:6820円
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