物語はサプライズの贈り物だった。
最後に受け取った思いがけないものまで含めて。
女なら子を産むべし、生んだからには全責任を持って育てるべし、と周囲から期待と圧をかけられる。
子が生まれることはめでたいことだろうか。子を育てることは喜びだろうか。どんなときも?
たとえば。
わが子の誕生を待ちわびる妊婦が、あと少しで出産という時期に医師から、おなかの子どもが正常に育っていないことをを告げられる。出産直後にこの子は死ぬだろうと。
母親になる人は残りの妊娠期間、誕生と死とを受け入れるために最大級の準備をするが、生まれてきた子は、関係者たちの予想に反して、生き延びる。この子は生涯、目が見えるようにはならない、耳が聞こえるようにはならない、立つことも座ることもできない、と告げられながら。
また、ある母子。
DV夫を交通事故で喪ってから、妻は子を巻き込んで家に引きこもる。子に許されている外出は小学校の登下校のみ。子は激しく荒れる。その荒れ方は亡き夫にそっくりだと、母親はおびえる。
語り手ラウラは、彼女たちの親友であり、隣人だ。
彼女は子どもが苦手で、生涯生むことも育てることもしないつもりでいる。
だけど、子のために苦しむ親友と隣人の生活に、かかわらずにはいられなくなる。
心に残るのは、鳩の巣に産み付けられた郭公(と思われる鳥)の卵のこと。托卵のようだ。孵った雛は、親とは似つかぬ姿。
障害児を育てるある母親の言葉が印象に残るのだ。
「まるでわたしたちの巣に誰かが卵を産み付けたみたい」
予想もしなかった重い責任を与えられてどこにも逃げ場のない母親は、自分を孤独の中に追い込んでいく。丁寧に綴られる彼女たちの日常は、他人事に思えなかった。
ただ、知識や経験が豊富な専門家よりも、友として、同士として、当事者に寄り添おうとする支援者たちが存在したことが、救いだった。
重い話であるが、母たちの辛い日々の記述は、むしろ穏やかに感じられた。不思議だけれど。
母親たちの厳しい現実をありのままに辿ることで、物語は両手で彼女たちを掬い上げているように感じた。
でも、ここまで書いたのは親からの物語だ。
親の力で生かされているように見える子にも独自の物語がある。物語は、親の物語を語ることで、ずっと子(たち)の物語も語っていた。
その物語は、読んでいるこちらにも、静かに圧倒的な力で押し寄せてくる。
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