主人公アンバー氏は年老いた男性で、『芸術の館』と呼ばれる施設で暮らしています。
とても小さな声でしか話をせず、静かに、ひっそりと生活しているのです。
彼は、本当は別の名前を持っていたのです。
しかし、幼い頃に母親からこれまでの名前は忘れてしまうようにと言われ、姉と弟と共に、図鑑をめくって開いたページに書いてある物の名前を与えられたのです。
彼が開いたページに載っていたのは琥珀でした。
姉はオパール、弟は瑪瑙という名前を得たのです。
父親は図鑑を専門に出版する会社を経営していたのですが、徐々に売れなくなり、また、アンバー氏の母親とは正式な夫婦関係にもなかったことから、ある時、湯治場に建てられていた別荘を手切れ金代わりに渡して別れたのでした。
その後、母親と子供達はその別荘に移り住み、絶対に塀の外には出てはいけないときつく言い渡され、数年間にわたって閉じこもった生活を続けていたのです。
アンバー氏には妹もいたのですが、まだ幼い頃に亡くなっていました。
母親は、妹が亡くなったのは犬に舐められたせいだと強く言い張り続けるのです。
母親の言いつけを守らないと『魔犬』がやってくると言われ、アンバー氏らは外の社会とは断絶した生活を続けさせられていたのです。
物心ついた頃からそういう生活だったため、アンバー氏も姉も弟も、そういった生活が奇異なものだとは考えなかったのですね。
別荘には父の会社が出版したけれど返本されてきた図鑑が大量に置いてありました。
その図鑑で勉強することがきょうだいの日課でもあったのです。
ある時、アンバー氏の左目が琥珀色に曇り始めました。
見えなくなったわけではないのですが、左目の中には虫のような線のような物が見えるようになってしまいました。
その目で図鑑を眺めていた時、そこに亡くなった妹の姿が見えたのです。
それ以来、アンバー氏は、図鑑の余白に妹の姿を描き込むようになりました。
図鑑に描かれた妹の姿は、図鑑のページをめくることによって動き出すのでした。
アンバー氏は、妹を大切に図鑑の中にかくまったのでしょう。
母親は、生活のために別荘の近くの湯治場に働きに行きました。
『魔犬』と遭遇した時のためと言って、必ずツルハシを持って出かけるのです。
そんな母親の唯一の楽しみは、町にある劇場に出かけることでした。
とは言っても劇場のチケットは高くて買えません。
母親は、劇場の前にあるベンチに腰をかけ、ただじっと、プログラムが始まる時間から、終わって観客が出てくるまでの間、劇場を眺め続けているのです。
私達は、どうしたって周囲の世界と関わらずには生きていけないわけですが、この母親と子供達は、世界との関わりを拒絶して生活し続けるのですね。
それは極めて異常で病的な状態なのですが、そこで生活している者たちは、この別荘がまるで世界からの避難場所であるかのように、その中で静かでデリケートな暮らしを続けていくのです。
しかし、このような生活がいつまでも続けられるはずはなく、遂にこの生活が他者に気付かれてしまい、かなりショッキングな終わりを唐突に迎えることになります。
他者の目から見ると、母親が幼い子供達を監禁していたと映るのですね。
しかし、作中に描かれる子供達の生活は、決して監禁されているものではないのですが。
アンバー氏は、その後この別荘から『救出』され、福祉施設に収容されます。
そして、年老いた今は、おそらく老人を収容していると思われる施設で生活しているのです。
彼は、今でも図鑑の余白に絵を描き続けています。
以前は、妹だけを描いていたのですが、今は姉や弟、母親の姿も描くようになりました。
何ともすごい発想の作品です。
どうしてこんなことを思いついたのかと言うほど。
そもそもの別荘での生活もそうなんですが、その中で子供達が考え出す遊びや、彼らの考え方が非常に不思議なもので、小川さんの想像力には脱帽してしまいます。
作品としては、静謐で哀しみも漂うような味わいがあります。
決して舌触りの良い作品ではないと思いますし、小川さんの他の作品の方が良いなぁとも感じるのですが、インパクトがある作品であることは間違いないと思います。
好き嫌いが分かれる作品かもしれませんが、独特の雰囲気を持った作品であることは間違いないと思います。
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