ヨークシャー・リッパーが跳梁した時代のイギリスの闇を描く、デイヴィッド・ピースの〈ヨークシャー4部作〉の第2作、『1977リッパー』。いよいよ物語は混迷の度を深めていく。
1977年という“二つの七が揃う時”、郵便局強盗を追っていたミルガース署部長刑事、ボブ・フレイザーは、売春婦殺人事件捜査班へと異動になり、「ヨークシャー・ポスト」紙でジャック・ホワイトヘッド記者が〈ヨークシャー・リッパー〉と名付けた連続殺人鬼を追うことになるが…。
物語は「わたし」による一人称視点で語られるのだが、その「わたし」は章によってボブ・フレイザーだったりジャック・ホワイトヘッドだったりする。一応、奇数章はボブ、偶数章はジャックであることが多いが、必ずしもそうであるとは言えない。そして、その章の語り手である「わたし」が2人のうちのどちらなのかは、しばらく読み進めないと分からない。
こうした構成から、これが普通のまともな(?)ミステリであれば、刑事であるボブと新聞記者のジャックがそれぞれの立場から事件を調べていく中、ある時点で2人が出会うことで双方の犯人像がカチッとかみ合わさって1つになり、そこから一気に真相が明らかに…といった展開になるのだが、第1作
『1974ジョーカー』がそうだったように、これはそんな物語ではない。そもそも、これはミステリではなく「ノワール」──日本語では「暗黒小説」──なのだから。
ボブは警察のお偉いさんの娘を妻に持ち、子供もいる。そんな妻子を深く愛しながらも、彼はある事件で事情聴取した売春婦のジャニスをそのまま車の中で犯し、それ以来、彼女に入れ込み、愛人にしている。「ヨークシャー・ポスト」紙の看板記者、ジャックもまたキャロルという恋人に悪夢を見るほどの変質的な思いを抱いている。2人はよく似ている。だから物語を語る「わたし」であるボブとジャックが重なって見えていく。
本作のもう1つの特徴は、言葉を重ね、繰り返すことで、ある種のデモーニッシュな空気感を作り出していることだ。例えば、ジャニスが〈ヨークシャー・リッパー〉の標的にならないかと恐れるボブの独白。
ヨークシャー、1977年。
目を拭ったが涙が止まらず、いつまでも乾かなかった。やつを捕まえるまでは止まらないとわかっていた。
やつを捕らえるまでは。
やつが彼女を捕らえる前に。
やつの顔を見るまでは。
やつが彼女の顔を見る前に。
やつの名前を知るまでは。
やつが彼女の名前を知る前に。
《イブニング・ポスト》を裏返すと、そこにやつがいて、一歩先でわたしたち二人を待っていた。
〈ヨークシャー・リッパー〉(p.163-164)
あるいはジャックとキャロルのやり取り。
「犯して、ジャック。いつもやってたように」
わたしは体を引き離し、何度も何度も悲鳴を上げた。「きみは死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ」
ささやき。「いいえ、ジャック。死んだのはあなた」(p.190)
この〈ヨークシャー4部作〉はイギリスでマーガレット・サッチャーが首相の座にあった時代の話だ。サッチャーは低成長と長引く不況で「イギリス病」と揶揄された経済を、ビッグバンなど新自由主義と言われる手法によって再生させたと評価される一方、経済格差や人種による社会の分断が進んだ負の側面もあった。
折しも2025年の日本に「サッチャーを尊敬している」と嘯(うそぶ)く初の女首相が誕生した。その首相は日本をどこに導くのか? その答えが第3作『1980ゴースト』にあるのかどうか私は知らない。
この書評へのコメント