誘拐の日 (ハーパーBOOKS)

なかなかの内容だった。天藤真「大誘拐」みたいなのかなと思いながら読んでいたが、とんでもない!
本書は「哲学なんか知らない」、「哲学なんか興味ない」という人にこそ読んでほしい。そういう人こそ、実は哲学に「呼ばれ」ている人かもしれないから。
世界はわたしから目をそらし、すました顔でとぼけている。その後、永井は「約束は守らなければならないか」というテーマで行った哲学対話の中で、高校生が
おそろしくなったわたしは、どうやらこの奇妙な世界の「正体」が書かれているらしい、哲学書を手に取ってみた。(中略)手始めに、サルトルという名前の哲学者が書いた『存在と無』という本をひらいてみる。存在とはばばばばばびぶぶべべぼ、あるところのものびびびばば、ではないところばばっええじゃややえあくうしたわかちこわかちこ。(中略)本を閉じた。脳が爆発してしまう、と思った。
水中でもがくように言葉を絞り出していたことを引いて
それを見た私はふと思う。昔読んだわけのわからない哲学書。彼は、世界のわけのわからなさを、わからないまま伝えるしかなかったんじゃないか。と書く。
世界のわけのわからなさを、わからないまま伝えるしかなかったその苦闘の果てに編み出した、苦し紛れの手段だったのだ。ああ何と深い、そして本質を突く洞察! この1文を読んだ時、私は「仮に何かのトラブルで、この本を19ページまでしか読めなかったとしても、十分すぎる気づきを得られたから、もう悔いはない」と思った(結局、何のトラブルもなく本書は最後まで読み終えたのだが)。
哲学対話とは簡単に言えば、哲学的なテーマについて、ひとと一緒にじっくり考え、聴きあうというものだ。普段当たり前だと思っていることを改めて問い直し、じりじり考えて話してみたり、ひとの考えを聴いてびっくりしたりする。ひとや団体によってさまざまなスタイルがあるが、先輩に連れてこられて以来、いまに至るまでこの活動を続けている。(p.17)私も「なんちゃって」レベルで『存在と時間』や『論理哲学論考』を読んだりしていることもあって、本書を読みながらつくづく「哲学っていいな」と思い、自分も哲学を本格的にやってみたいような衝動にかられそうになっては「ああ、いかんいかん」と何とか踏みとどまった。
わかる、はわからない。と、世界の「分からなさ」の前になすすべなく立ちすくみ、絶望している彼女は、哲学に「呼ばれ」た(あるいは「呼ばれ」てしまった)側の人だ。対して、自分の理解力のなさに立ちすくみ、覚えたはずのことがどんどん頭から消えていくことに絶望することはあっても、世界の「分からなさ」をそのまま受け入れてしまう私は、哲学に「呼ばれ」なかった側の人間だから。
わからないことはわからない。わかることもわからない。わかろうとしてわからなくて、どうしたらいいのかもわからない。(p.52)






なかなかの内容だった。天藤真「大誘拐」みたいなのかなと思いながら読んでいたが、とんでもない!

モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』を連想させる絵本ですが、ちょっと「リアル」なのが、不思議な印象を与えます。

偶然出会ったかつての友人に頼まれ、1年前に起きたベランダからの転落死事件について調べることになった吉村。それは本当に事故死だったのか。残されたラジオの配線図の謎。配線図がわからなくても十分楽しめます。

ルッキズムとかハラスメントとか

星新一の描く世界が令和の世界と重なり合ってゆく
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