外国人材マネジメントの理論と実践:8か国・2,000人の工場をまとめたリーダーの行動原則

外国人材を「組織を強くする戦力」へ変換する方法とは?
ありそうでなかった物語/復讐を軸としたモンスター・ホラーのストーリーに、少年誌の伝統たるスポ根マンガの要素を導入した「ありそうでなかった物語」。広範な読者を獲得し、コロナ禍の日本列島を席巻した話題作




>darklyさん
ご無沙汰しております。まさにご指摘のとおり、個々のパーツはありふれたもので、そういう意味では典型的な「玄人には評価されない作品」だと思います。鬼VS侍というのが桃太郎いらいの陳腐な構図ですし、そもそもこの作品自体、作者の独創ではなく、編集者と鳩首して完成したものだそうですから、色んなパーツを寄せ集め調整を重ねた成果なんでしょうね。
ただ、「『ドカベン』や『テニスの王子様』がホラーになったような話」というのはあまり記憶にないのと、一段強い「柱」を小出しに使ってくるところなど、過去のマンガやアニメによく学んだ、うまい手法だと思ったんですね。あとは「鬼の哀しみ」が共同体からの疎外のような古典的なものでなく、「自己肯定できない自分」という現代的な苦悩である点も、時代をそれなりに掴んでいるな、と思いました。
>マーブルさん
はい、私も冒頭からかなりキツい感じでした。あれは「苫前羆事件」がヒントなんでしょうが、大人でもちょっと・・・と思います。私が『デビルマン』を読んだのは小五のときでしたが、正直、あの年齢で読んだのが自分にとってよかったのかどうか、今もわかりません。
最近は『彼岸島』のように吐き気を催す作品が多いので、あれでも控えめなんでしょうが、幼い子供が「鬼滅」が大好きという話を聞くと、複雑な気持ちです。
ただ、『鬼滅』のネタ元と思われ、私もレビューを書いたことがある『HELLSING』などもそうですが、ああした残酷さは、未来が明るくない時代における逆説的な人間賛歌なのかもしれないとも思います。『HELLSING』はナチの人造吸血鬼と人類の戦いがテーマですが、最終的には「有限な人間が全能の神に挑む」という古典的な図式に収斂するので、なるほどと納得した記憶があります。でも、子供にはダメでしょうね。
永井豪の作品のあれこれが今の自分にどんな影響を残しているのか、はっきり言えませんが強烈な記憶は残っていますね。残酷こそ事実、と言う意見もあるかも知れませんが明確に絵として表すのはどうなんでしょうね。
鬼滅柄のマスクをして喜んでいるような年齢の子はどういう思いで見ているのか。
敵役側の心情を描いているのがいい、との意見も聞きますね。これもそれだけではそう珍しくない昨今の傾向の気がするのですが、darklyさんのように若者の共感を得たということなのでしょうか。いずれ色んなタイミングが重なっているのでしょう。
そう言えば先日読んだ『さよならドビュッシー』も音楽スポ根+ミステリーと解説にありました。スポ根は古びないということですかね。
マンガや小説の残酷描写については、若い頃に愚弟とかなり議論をしたことがあり、気にかかるテーマだったのですが、日本でも80年代から残酷なストーリーが増えていった気がします。意外ですが、実は赤川次郎がこの手法を好む人で、彼のホラーには残酷なものが多いんですね。
『さよならドビュッシー』もですか。話題の美術マンガ『ブルーピリオド』もスポ根といわれてますし、やはりこのパターンって多いんですね。
正確にはスポ根というより、その原型である吉川英治『宮本武蔵』のような武道小説の伝統なんでしょうね。西洋にも人格完成をテーマにした教養小説はあるものの、師に学んで厳しい修行を積んで、という物語は、日本や中国など東アジア特有のようですが、スポ根はもちろん、料理など職人・お仕事マンガまで、この型の物語はほんとに多いですから、間違いなく日本の文化的伝統でしょうね。
残酷描写と対になるのが性的な描写。(これも永井豪で大分刺激的な経験をしていますが)我々が子どもの頃とは比較にならない程開放的になっているがゆえに、現代っ子は刺激に慣れっこになっているのかもしれません。同様に残酷描写も心配する程影響はないのかもしれません。
けれど、それが幸せなことかどうかは別問題。刺激の先には、さらに強い刺激を求めるしかないわけで。
例えとして分かりにくいかもしれませんが、大型バイクの免許を教習所で取ることができるようになってバイクの楽しみを失っている人がいると思っています。原付バイクでバイクの面白さを知り、中型で拡大する世界に驚き、その後じっくりと終の棲家ならぬバイクを見つける。そういう段階的な楽しみを一足飛びで飛び越えて、海外製の大型バイクをすぐに手に入れては、数年で卒業してしまう。もったいない。
残虐表現の件とはずれてしまいましたが、刺激は小出しに経験させたいものです。
スポ根と宮本武蔵とは考えてもみませんでした。そう思うと小次郎が花形に見えてきます。おつう役は明子姉さんにしておきますか。
西洋ではスポ根もの見られませんか。今後注意して見てみたいですね。このところ日本と西洋の比較に興味がありあれこれ読んでいますので。
スター・ウォーズが師匠について学ぶのはやはり東洋的な部分の現われでしょうか。先日ヘッセを読み、彼の作品は大体が成長譚であり本人の一部のような導き手が存在しているな、と思ったところです。ヘッセも東洋思想への傾倒がありましたから、そのあらわれでしょうか。他の西洋の成長物語をそんな視点で見直してみたいと思います。
いや、花形=小次郎はまさにご指摘のとおりです。スポ根=武道小説というのは私の説ではなく客観的事実でして、スポ根の祖といえば梶原一騎ですが、彼が若き日に大きな影響を受けたのが、極真空手の創始者である大山倍達でした。
大山は吉川英治の『宮本武蔵』に心酔し、武蔵ばりの武者修行を敢行したことで知られています。『武蔵』が大山を経由して梶原に伝わり、彼が原作の『巨人の星』『タイガーマスク』『キックの鬼』『侍ジャイアンツ』『あしたのジョー』等の骨格になりました。いずれも微妙な変奏がありつつも、武道小説の伝統が生きています。
この辺りは梶原の自伝的漫画『男の星座』で描かれています。ですから飛雄馬はまさに武蔵、花形は小次郎なんです。
ヘッセについてもマーブルさんの仰るとおりではないでしょうか。『スター・ウォーズ』は、原作者のルーカスが黒澤の心酔者ですから、ジェダイの禁欲的生活は『七人の侍』の久蔵などがヒントでしょうね。
ちょうど梶原一輝を特集した雑誌が出ているようですね。
あれもこれも一世を風靡し、マンガやアニメを見た作品ばかりです。きっとその中から影響を受けた作品を生み出す作家も育っていったんでしょうね。
ご高察の通り西洋ではこのようなスポ根的成長譚が見られないとすると、その要因にはやはりかの地の個人主義があるのでしょうか。親(師匠)は乗り越えるもの、といった。神話世界の父親殺しとの関連も気になるところです。
ユングは内なる異性としてのアニマ(アニムス)の他に老賢人についても述べていますが、彼も西洋的思考の典型とは言えそうにないので、もっと典型的西洋の考えに当たってみる必要がありそうです。ヘッセにしろユングにしろ、西洋人でありながら東洋に近づいて来た人々に片寄りがちです。あまり大人の一般受けはよくありませんがサリンジャーなども。
久蔵のような素晴らしいジェダイは、作品が新しくなる度に見られなくなった気がします。
やはりマーブルさんやdarklyさんとお話すると勉強になりますね。
たしかにスポ根的成長譚や師弟的関係は、西洋には余り見られないんですね。西部劇でも少年や女が凄腕のガンマンに射撃を習う話はあるんですが、師弟関係にはならない。
一方、香港にはJ・チェンの映画のような師弟物語があるので、東アジア特有かと思われます。その起源や変遷を研究した本があれば読んでみたいんですが、思い当たらないんですよ。
父殺しとの関係もありますね。『美味しんぼ』のように父子相克と師弟関係が融合した話がありますし。このテーマはマーブルさんが非常にお強いように思いますので、いっそご研究されてはいかがでしょう。私も勉強させていただけますので(笑)。
『スター・ウォーズ』でのジェダイ騎士団は、民主主義の弱点を補う役割を果たしていたとも読めて、非常に興味深いですね。やはりあれはルーカスならではで、普通のアメリカ人には扱えないんでしょう。
>マーブルさん
「修行による自己形成の物語」は単に東洋の伝統というだけでなく、明治以降に西洋の個人主義や教養小説に啓発された結果でもあるんだろうと想像します。新渡戸の『武士道』の根本にキリスト教があったのと同様なんでしょうね。
西洋的な個人の自己完成の物語を日本でも書いてみようとしたときに、枠組みとして使えたのが『武蔵』や『姿三四郎』のような武道小説であり、山岡荘八の『徳川家康』のような武将の出世譚だったんでしょう。その辺も含めて面白いテーマだと思います。仰るような父権VS母権の文化的な違い、技芸の家元制度、職人を尊重する日本の伝統など、いろいろ勘案すべき要素はありますね。
>明治以降に西洋の個人主義や教養小説に啓発された結果
「日本人とは」と考えるとき、つい神話の頃から連続した日本人像があるものと思ってしまいますが、違うんですよね。維新と戦争という大きな変革を経ているわけで、我々が「日本人らしい」と思っていることも、実はそれ程長い歴史があるわけではなかったり。
あるいは、ネット社会における情報の拡散と影響は、世界中を一見平準化しているようでもあり。
それでもやはり、違うところがあるように見えます。
最近読んだ『甘えの構造』を通して考えると、やはり西洋の個人主義と日本の集団主義の違いが思い浮かびます。青少年の成長を考える時も関連があるのかもしれません。そう言えば、小さい子どもの手を取って教える(字を書く際など)という身体を伴う真似させる行為は日本特有だと書いてあったのはどの本だったか…。『甘え』だった『菊と刀』だったか。
メモは取っても、読んでも読んでも忘れてしまって。
日本人の精神に古代以来の連続性があるかどうかは、まさに思想史上の一大問題ですね。ご指摘のとおり、伝統といわれるものも調べてみれば歴史は浅い、ということは幾らでもあるでしょうし、そもそも日本の文化で支那文明の影響を受けていないものはないでしょうから。
ただ、私も「それでもやはり、違うところがある」と思います。和辻哲郎の風土論はもちろんですが、日本の伝統文化に批判的だった丸山眞男でさえ、有名な論文「歴史意識の『古層』」で、古代以来の日本人の伝統的思考には、他国と違う独特な面があることを指摘しています。むろん、丸山はそれを否定的に評価しているんですが。
そこにはたしかに「個人主義VS集団主義」という側面がありますね。ただ、先ごろ話題になった高野陽太郎の『集団主義という錯覚』のように、日本人=集団主義という図式に疑問を呈する言説も過去から根強いところで、この点については私もまだまだ不勉強です。
同じ苗でも土が違えば育ち方が違うように、外国のものを取り入れながらも、独自の消化の仕方あたりに日本らしさがあるのかもしれません。
遠藤周作の『沈黙』には衝撃を受けました。言葉ではわかっていたはずの「日本独特の受け容れ方」が、生々しく語られている。信仰し、殉死までしたとしても布教する側が求めた教えをどこまで理解していたのか。同じ神なのか。
先日妻が見ているTV番組の音が耳に入ってきました。出演者のコメントまでは聞いていませんが、上司がランチをおごる際に部下の方が高いメニューを頼むのはどうか、という話題でした。こんなところにも日本人の考え方の変化、世代によるギャップが見て取れる。かつてのビジネスマナーで当たり前だったことが、通用しなくなっただけでなく、恩と義理という相手にもたれかかった集団関係を、軽く拒否する若者と、それを理解できない古い人間。けれど、若者も個を確立しているかというとそうでもない。
西洋のビジネスモデルをほめそやしながら、旧態依然の感覚でものを語る上司に期待などしない若者も、理想を追いかける強い「個」よりも、何も素晴らしいことはお気はしないと諦め、他人と関わることを面倒だ、と考え「孤」に逃げ込んでいる。
日本人=集団主義とは断言できない状態にはありながら、そもそも個人主義の基礎がないために、緩い地盤の上に立てた建築物のように揺らいでいる。そんな気もします。
仏教、キリスト教と他分化からの流入を独自の仕方で吸収、取り入れて来た日本も西洋個人主義は同じようにいかなかったのか。それを妨げるものが日本人らしさのポイントなのか。そういった方向からも考えてみたいですね。
ダラダラと書きなぐってしまいました。noelさんもご遠慮なさらずご意見をお願いいたします。
マーブルさんのお言葉に甘えて、独り言を――。
わたしは独創性がないくせにひとの真似をするのが嫌いな人間で、幼い頃から人見知りで臆病な人間でした。なので、会社でも忘年会や飲み会などが苦手で、できれば参加したくないと思っていた人間です。そういう意味でいえば、仲間は欲しいが集団とのそれとなると、勢いしりすぼみになる自分の感性を疎ましく思っていました。大学では心理学を学びたかったのですが、うまくいかず哲学のそれになりました。しかし、まっとうな哲学徒にはなり切れず、中途半端な文化論者になりました。誰にも甘えられず、自分にしか甘えられない情けない人間なので、個(インディビジュアル)ならぬ「孤」を地で行っているひとりですが、最近の若者のそれとは違って、かつてサルトルが唱えていたアンガージュマンとはまた違った意味で、わたしのいう系統発生的な連帯は必要なのではないかと秘かに思っています。マルクスの言っていた「疎外」とはまた違う事態がいまの社会を覆っているような気がしています。
>マーブルさん
まさに『沈黙』ですね。たしかに日本の風土は、どんな思想でも飲み込んでしまう底なし沼ではありますね。
その点について丸山眞男は、日本には進歩主義も保守主義もない、あるのは永遠の今(「中今」)だけだと述べています。要は思想が育たないわけですね。また、異端の仏教学者として知られた袴谷憲昭は、日本にはあらゆる外来思想を取り込んで変形してしまう強固な土着の思想(本覚思想)があると論じました。
最近はアジア主義を含めた昭和初期の右翼思想史の勉強をしていますが、正直、複雑怪奇すぎて訳がわかりません。これぞまさに『沈黙』が描いた泥沼の産物だろうと思います。
日本人が集団主義なのは事実だと思うんですが、日本人を従順な羊のように考える、従来の捉え方が一面的過ぎたんでしょう。日本人は競争が大好きですし、他人に束縛されることを徹底的に嫌います。羊どころか狼ですよ。軍事政権が700年も続いた国ですからね。
日本の思想史を学ぶのもヒントになりそうな気がしますね。まあ、それも諸説ある のでしょうが、これまできちんと触れたことのない分野ですので。
できれば思想史に加え、小説や映画、マンガなどのカルチャーと絡めて考察できると楽しそうです。
集団主義が悪のように言われるのは、逆にひとつの理想形として挙げられるアメリカを代表とした個人主義を善とした結果なのでしょうか。アメリカ=善。したがってアメリカの個人主義も善。それと反対の集団主義は悪、と。
おっしゃるとおり、集団主義だからといって羊とは限らない気がします。国力の差を痛感し、必要以上に自虐的評価をしていたのでしょうか。
過去の集団主義が崩壊しつつありながら、個人主義も未熟なままの現代日本はどんな方向に行けばいいのか。コロナ禍でじっくり考える機会が得られた、と思いたいものです。
>noelさん
読書人としてはるかに先輩のnoelさんと議論できるレベルにはないのですが・・・。
私も忘年会や飲み会が大嫌いで、若い頃には会場から走って逃げ出し、怒った先輩に追いかけられたことがあります。コロナのおかげで飲み会が無くなったのはありがたいことです。気の合った人と飲むのは大好きなんですが、スポーツにまるで興味がないので、話の接ぎ穂がないんですね。
ある識者が日本人(ことに男性)を「世界一孤独」だと形容していましたが、私も何らかの形での人間同士のつながりを再生することが必要だと考えています。私は発想が古いので、「連帯」ではなく「共同性」と言っておりますが。ただ、勝ったの負けたの、上だの下だのと競争意識の激しいこの国の人々にそれが可能であるか、心もとない気はいたします。
>マーブルさん
アメリカの個人主義が理想化された影響は大きいでしょうね。ただ、近代以前に遡ると、むしろ日本人のほうが「個人主義的」にみえる部分もあります。「個人主義」の定義いかんという部分はありますが。
たとえば、戦国時代の武士の生き方などはそうで、優れた思想史家である菅野覚明の『武士道の逆襲』などを読むと、彼らの生き方も戦い方も江戸期の武士とはまるで違う、文字通り死と隣り合わせの剝き出しの個人主義であったことがわかります。むしろ西洋の戦術のほうが集団主義的です。
それだけ勉強をなさっているんですから、ついでに思想史に触れて見られてもよろしいのではないでしょうか。とくに丸山眞男の業績は、今も日本の左翼リベラルの思想を根底で規定していますので、読んでおかれると政治や社会をめぐる議論の見通しが更によくなるかと思います。私は思想家としての丸山は嫌いですが、思想史家としては一級だったと思っています。
>ランピアンさん
譬えはよくないかも知れませんが、最近の建物の分類に「集合住宅」と「共同住宅」があって、前者を「賃貸住宅」、後者を「分譲住宅」とすれば、賃貸住宅のそれは連帯を必要としない「孤」の集合体、分譲住宅のそれは集団としての規律を重んじ、ルールを守らなければならない居住空間ということになるでしょう。
わたしのいう「連帯」は連帯感と一般にいうそれと同じですが、それなくしては、共同生活は営めません。とくに標準管理規約というルールに縛られていない賃貸住宅の住民さんたちは、自由気ままで、まさに孤として生きています。隣の住民がなにをしていようと頓着していません。自分たちの共同の持ち物としての意識がないからです。
だから、どこがどう汚れていようが、それは家主さんの責任に帰するわけです。快適な居住空間に仕立てるのは自分たち住民ではなく、オーナーの力量次第というわけです。
(あとに続きます)
いっぽう、分譲住宅の住民さんたちは、それぞれの役割分担を組合員という名目に従って、それぞれの義務を担っていきます。これは、前者とは違って、自発的な連帯というのではなくて、むしろイヤイヤ応じる半強制的な役務でもあります。
どちらがどうという意味ではなく、共同と連帯では、似て非なる感じがあり、わたし的には「連帯」は撤回し、「エンパシー」と言い換えたほうが通じるかもと思いました。個的に通じ合える「我と汝」の共同空間においてのエンパシーの発動が、いま必要になっているのではないかと思います。ランピアンさんやマーブルさん、そしてdarklyさんの話は面白くもっともっと、このコメント欄を続けて行ってほしいと思いました。
>noelさん
ご指摘のとおりでしょう。私はまさにその分譲マンションに住んでおりますが、管理組合は機能しておらず、総会も欠席が目立ち、数少ない出席者の間では怒号が飛び交うという有様です。このままでは重要な意思決定が不可能になるため、何とかできないかとは思うものの、見通しは暗そうです。
この問題について考えようと、榊淳司というジャーナリストが書いた『すべてのマンションは廃墟になる』という本を読みましたが、区分所有法の不備もあって日本では多くのマンションで管理組合が機能しなくなっており、このままでは廃墟・スラム化したマンションが多く発生するとしています。住宅政策の欠陥はもちろんですが、住民の間にエンパシーが欠如しているのが原因でしょう。
従来多くの識者がこの問題に気づいてはいましたが、知識人による「上から目線」の啓蒙は全く効果がありませんでした。「個人の自由」を盾にとられてしまえばお手上げですから。
武士という名前に誤魔化されがちですが、戦国時代と江戸時代の武士とではまったく違いますよね。そういう意味では、明治維新ほどではないにしろ江戸幕府の成立は大きなターニングポイントだったと思います。
また、日本人を考える上で気をつけたいと思っているのが、武士は日本人の一部であるということ。どの世界でも文化を形づくるのは一部の階級なのでしょうが、だからと言って大きな割合を占める庶民のことを無視することはできない。日本に横たわる泥沼は、庶民によるところが多いのかもしれません。
老いも若きも、他人とのつながりを上手く作れなくなっている昨今ですよね。ネット時代となり自らの選択で好みの集団に、好きな距離を取って参加できるような錯覚を覚えますが、慣れないツールにかえって踊らされている気もします。
人口は多いのにお互いは距離を取って暮らす都会。支え合わないと崩れ去りそうなのに、支え合えるほど人のいない地方都市。。。
日本は「察する文化」ですからね。相手の心情を窺知して自身の行動を選択するわけですが、価値観が多様化し察することが困難になると、他者とのコミュニケーション・コストが大きくなり、対人関係で疲れてしまう。しかも、PCのようなコードが入ってきたために、セクハラやパワハラの危険もあるから余計です。
社会学者の加藤諦三が、「日本人ほど勝負に拘泥する人種もいない」と指摘しています。米国は日本以上の格差社会だが、日本ほど格差格差と騒がない。日本人は人間関係を勝ち負けの観点で見るからではないかと。今や日常化した炎上騒ぎの原因もそれでしょう。かかる心性もつながりを作れない原因の一つだろうと思います。
重要なのは、その心性が日本人の同調性の原因だという指摘です。とにかく負けてはいけないから、誰かがうまくやったことを模倣する。模倣すれば少なくとも負けないからです。なので『鬼滅の刃』が流行ると、どこも鬼滅一色になると。
「察する文化」「間を読む文化」でしょうか。ある程度の共通認識がないとできないですよね。対する個人主義はだからこそ「言わねばわからぬ」主張が大事になってくるのでしょうね。日本の教育も議論や主張することに力を入れてきているようですが、どちらと言わず得意な方を伸ばせるといいのですが。
ネットに関わるツールは距離感をつかむのが難しいですよね。姿が見えない分相手を掴みにくいのに、こちらの姿を晒していない分遠慮がなくなる。誤解が発生しやすいのは当然。
『甘えの構造』では、甘えの人間関係を作り上げている日本人が、普段は礼節を大事にしているのに旅の恥は掻き捨てになる例えから、匿名時に起こる無遠慮、無節操が語られていました。ネット上の騒ぎを想起させます。
丸山真男の『日本の思想』を買って来ました。
日本の文化はまさに「間を読む」ですから、それはそれで大事にしたいんですけどね。でないと、文学を始めとする過去の文化的遺産が無意味なものになりかねません。
ネットの場合、書き言葉であることで、まともに真意が伝わってしまうという部分もありますよね。情報化社会が人間を変えていくので、いろいろと難しくなりました。
炎上にせよヘイトスピーチにせよ、行為者の自己不全感や劣等感から出ているものだけに厄介です。彼らは自身も気づかない疚しさを抱えているので、非難されると余計に偽悪的になり行為に熱中します。社会が透明化・合理化されたために、格差は可視化され、自己責任が問われる余地が増大した結果でしょう。進歩が生み出した負の部分だけに、解決は難しい。
早速お買いになられたんですね。すみません。変な方向へ引っ張ってしまいましたね。
しかし、マーブルさんの向学心には本当に脱帽です。
デジタルは0と1のどちらか以外の「間」を入れる余地はないわけですから、書かれていること以外を察する文化とは相性が悪いのも仕方のないことなのかもしれませんね。
「言われたことしかやらない」「言われた通りにバカ正直に行動する」
いわゆる新人類を社員教育する際の笑い話のネタでしたが、デジタル化、間が読めない傾向が根っこにあったのでしょうか。
わが社でもご多分に漏れずリモート会議など導入していますが、やはり微妙な空気は伝わらず、棒読みの資料読み上げと、一方でここぞとばかりにアピールする人に分かれこれまでとは異なるものになっています。難しいですね。
岩波新書なら初心者でも取っ掛かり易いかと購入しましたが、帰ってから調べると「『日本の思想』を精読する」という本もあり、そちらの方が良かったのか、すごく難しいのか、と緊張しております。以前話題に出た神道についての勉強は数年たっても手をつけられずにいてお恥ずかしい。
お二方は、ほんとうに勉強家ですね。ぐうたらジジイのわたしは羨ましいかぎりです。
さて、言語学は言語学でも意味論のそれではなく、語用論の立場に食指が動くわたしにしてみれば、「間を読む」とは紙に書かれた文字の間の、つまりは行間を読むというのではなく、その言辞(ディスクール)をどのように解釈するか、またはどのような意図をもって発するかによると思います。
たとえば、たまたま今日知った本に『なぜヒトだけが言葉を話せるのか』というのがあり、その解説に「話し手が『雨が降っている』と言ったとき、聞き手が単にそのまま文字どおりの意味に理解しただけでは、コミュニケーションは不十分」で「話し手の意図は『外出したくない』ということかもしれません」とありました。
これなどはまさに語用論の範疇であり、現に取り交わされているその言語空間での関係性によって言葉のありようは変容するということにほかなりません。それを書き文字としての言語空間を補うものとして、絵文字やピクトグラムのようなものが追加されて、真の意図を会得させようとしているのだと思います。
人間の思考の長所はアナログにあるわけで、AIが人間にとってかわるというのは、まだまだSFの世界でしょう。ただ、デジタル思考で対応可能な範囲はわりと広いですから、AI依存はまだ進むでしょうね。
社員が「言われたことしかやらない」のは、いわゆるジョブ型雇用では正しいあり方なのですが、日本の会社では正社員は全員同じ身分で将来は社内昇進して役員にもなりうるという建前ですから、経営者の視点で見ろとか、上のポジションになった気で働けといった心掛けが必要とされたわけですね。
それが通用しなくなったのは、経済成長で人生における労働の意義が低下したこと、そしてマーブルさんと議論した「修養による自己完成」や「師と弟子」といった日本の伝統的精神が失われてきたことも関係あるかもしれません。
丸山の文章は読みにくいですが、解説書をお読みになるのは後でもいいのではないでしょうか。現物を読んでしまうのが早いと思います。
「察すること」の弊害については、左翼知識人たちがこれまでさんざん書いていますので、汗牛充棟ではありますね。彼らは日本文化を根底から否定したい人々なので、とうぜん「察する文化」の弊害には目を付けています。
左翼とはいえないかもしれませんが、哲学者の中島義道がこの問題には熱心でした。教科書で有名な吉野弘の詩「夕焼け」を挙げて、「察する文化」が人間を排除する残酷性を秘めていることを指摘しています。これは外国人が日本に住みにくいとされる問題とも密接に関係しているでしょうね。まあ、私には外国人の友人もいませんし、今後できる見込みもないですから、関係ないですけどね。
仰っているのは、いわゆるカスタマー・ハラスメントのようなことでしょうか。であれば行き過ぎでしょうね。わたしは今後の日本社会は労働者保護の徹底、ブラック企業撲滅の方向に行くべきだと思ってますので、「行きすぎた察し」は否定されるべきだと思います。
牽強付会な駄洒落であることを承知で言うなら、「ハラスメント」とは畢竟、「いやがらせ」のことであって、それをする者のココロの中には、ある種の「ウラミ・ハラスメント(恨み晴らさんと)」するような趣もなきにしもあらずで、承認欲求の行き過ぎたカタチでの「押しつけ」にもなっている部分もあるのではないでしょうか。
察する文化とは、まさにそのような意味で、「いやがらせ」ひいては「ハラスメント」を行う人物の内面にも気遣いをする必要性があるということをコノテートしているとも思えるのです。
たとえば、年若くもないのに赤いミニスカートを穿いて職場に現れ、周りの年若い男性に媚を売っている女性がいたとしたら、それを見た上司もしくは同僚は、彼女に不快感や嫌悪感を覚え、一種の被害感情からくる「妬みのココロ」を生み出し、ついあらぬ誹謗の言葉を口遊んでしまうというシーンも一種の「セクシャル・ハラスメント」と化してしまうのです。(下に続きます)
彼女は、そのときこそ「察する文化」を「表無し(タテマエではなくホンネで悟る)」の精神で、忖度すべき立場であるといえましょう。何事も相対的であり、「ハラスメント」が「ハラスメント」足り得るには、一方からのみの批判は当たらず、双方の思いのなかに、つまりは「我=汝空間」のなかにのみ存在するといえるのではないでしょうか。
ナントカ警察という言葉がはやっているいま、他罰的志向はやむを得ない部分もありますが、マーブルさんのおっしゃるように『お互いさま』という意識なくては、この世の中はやっていけないということをもっともっと強調しなくてはならないと思います。
>マーブルさん
おっしゃるとおりで、「察する」は甘えの構造の中で成立するんですね。まさに「お互い様」で、相互に優しさを与え合う構造がないと成立しない。ところが、社会の進歩とともに、この「優しさを与える」が難しくなってきた。「赤ちゃんはまだ?」という、かつては問題にならなかった善意の言葉が、今の時代はハラスメントになりますから。
「ハラスメントが攻撃の手段になる」というのもご指摘のとおりでしょう。これは一部のマスコミや知識人が「ハラスメント」を政治的主張の補強に利用しているせいだと思います。私はそういうことが面倒なので、職場の同僚、ことに女性の職員とは職務上の話しかせず、私生活にわたる話は避けるようにしています。これが最上の防御策です(笑)。
そうですよね。私もバカは見たくありませんからね。職場で高名な専門家のレクチャーを受けましたが、とにかく何でもセクハラになりうるそうなので、理屈じゃありませんね。
いや、おっしゃるとおりでしょう。理解の方向もかなり違っていると思いますし、今でも外国では、アニメは子供のものという認識が一般的で、ジブリ作品などを除けば、日本のアニメを観ているのは子供か、或いは数の限られたアニメおたくじゃないでしょうか。
でも、日本のマンガやアニメには、やはり端倪すべからざるものがあると思いますよ。少なくとも私にとっては、PCでがんじがらめの最近のハリウッド映画などより、はるかに面白いですね。
コロナ禍でかえって気が楽になったのが職場の飲み会がまったくなくなったことですね。きっと同じように思っている人も多いと思うのですが、偉い役職の方々はそうは思っていないようで「顔をあわせてコミュを図らないと」等と言っています。クラスターが発生した店で濃厚接触者に認定されて大騒ぎになった経験があってもかわりないようです。
世代なのか?とも思いますが年齢的にはそう変わらないはずですので、何が違うのか。
本当に偉い方々は飲み会でコミュニケーションをとっていた、と言うことですかね。建て前の会議も必要だけど、そののち(あるいはその前)の飲み会での根回しも含んでいる。それが習慣になっているために若い世代にも通用すると思っている。。。。
国際会議でも本会議以外に個別に会談をしているので、日本特有ではないんですかね。それともニュアンスが違うのか。
まあ世代間のギャップは今に始まったことではありませんね。
同感です。私はこのまま忘年会も欠席しようと企んでおります(笑)。
世代ではなく、彼らが普通で我々が異常なんでしょう。仕事が人生の全てという人々には、終業後の飲酒が唯一の愉しみなんでしょうが、こっちは読んだり書いたりの時間が短くなるので迷惑極まりない。紀田順一郎さんも、読書時間の確保に苦しんだサラリーマン時代を回顧してますが、読書人共通の悩みですかね。
「外国ではどうしてるの?」は昔議論になったんですが、向こうはビジネスランチとか、ホームパーティで懇親してるって説がありますね。ただ、あっちは「原則自分の仕事だけやればいい」というジョブ型雇用なので、エリート以外は必要性じたい薄いのかも。
『刑事コロンボ』のノベライズ版で、「一杯やろう」と誘う犯人に、コロンボが「あたしは気の合う人としか酒は飲まないことにしてるんです」と応じる場面があるんですが、私も同じ考えなので、職場での飲み会は遠慮したいんですよ。
何という回の台詞ですかね。コロンボも読みたいのですが見かけないので残念です。最近またNHKで第1話から再放送していて若き日のコロンボを見て懐かしんでおります。
わが社の管理者は大抵単身赴任を繰り返して地方支店を回っているので、夜が暇なのもあるのでしょうね。夕飯がわりに居酒屋を付き合わされた時代もありました。
今は管理者もそこまで飲むのが好きな人ばかりでないのか、私の方が年上の場合が多くなってきたせいか、好きな若い人達だけ連れて行く程度になってきておりました。それでも忘年会、新年会、送別会、歓迎会と一通りはあるわけで、ことにここ数年は会社の連中とは飲まなくなっていたので苦痛でしかありません。
素面から見る酔っぱらいはやはり醜態としか思えませんよね。自分もかつてああだったかと思うと恥ずかしい。
ハラスメント問題と同様に、いつ何時足元をすくわれるか分からない世の中と思えば、油断して酔ってもいられません。
犯人がロバート・ヴォーンだったような気がするので、『歌声の消えた海』じゃないかと思うんですが、すみません、はっきり憶えてないんです。
「あたしは気の合う人としか酒は飲まないことにしてるんです。あたしはチリでもいただきますよ」という台詞だったはずなんですが、ノベライズで読んだので、テレビ版にはないかもしれません。私もNHKのを全話録画したので、ゆっくり探してみます(笑)。
私は酒自体は好きなんですが、うちの職場では肴をほとんど注文せず、ひたすら安酒を呷るスタイルが毎日続く有様だったので、付き合う気にならないんですね。酒や食事を楽しむんじゃなく、とにかく酔えればいいわけで、それこそ時間の無駄です。
今はだいぶ変わりましたが、それでもスポーツに全く興味がない私には苦痛で、阪神が勝った負けたと言われてもさっぱりですし、昨今は職場でオリンピックの話題を出されるので困りましたね。仰る通り酒の席でも油断できませんし。
>とにかく酔えればいい
ストレスが多いお仕事なんですかね。
私はある時から職場の飲み会で飲んでも酔えない、正確に言うと、身体はアルコールで機能低下しているだけでちっとも楽しくならなくなりやめました。車通勤ですし、つまらない酒を飲んで、運転代行呼んで、次の日が気持ち悪くてつぶれるんじゃ良いことないですから。
古来お酒は人類と共にあったのですから、必要とされて来たのでしょうが、その功罪は「知識」のごとくですね。うまく付き合って生活が潤うようにできると良いのですが。
旨そうに酒を飲んでいる小説を読むと憧れるのですが、なかなか上手に酔えません。修行が足らんようです。いい師匠を探さないと。
「歌声の消えた海」は録画してあるはずなので、見つけ出してそのうち見てみます。
ストレスはどの職種も同じでしょうから、たんに「伝統」なんだと思います。肴を頼むと飲み代が嵩む、嵩むと飲む回数が減る、というだけの話だと思います。だから楽しくないんですよ。
私も飲み方にはからきし自信がないですが、美食家ではないものの食べることは好きなので、おいしく食べて飲むことにしています。
けっきょく会話が楽しめるかどうかなんだと思うんですが、会話を楽しむには相手に親近感を感じられなければ無理なので、要はコロンボのいうとおりなんじゃないでしょうか。マーブルさんとご一緒できれば、間違いなく楽しいだろうと思いますけどね。
酒もたばこも一種の愚行なんでしょうね。酒飲むと脳細胞が大量に死ぬんだというんですが、愚行もあったほうが人間らしいでしょう。神様きどりの人々がタバコに続き酒も飲むな、肉も食うなと懸命に運動していますが、私は愚行もあっての人間だと思っているので、酒を止める気はありませんね。
お店に我々しか居なくなりましたね
潔くやめられるかどうか···いずれ、ケガなく無事で帰るというのが一番と思っていますので、無理だけはしないようにしています。それにしても体力の低下は避けられません。難しくなったら小排気量のカブでゆっくり近所を走りたいなあ、と思っていますがいつ退職できるものやら。
SFも色々と教えていただきました。財産として本棚に並んでおります。歳とともに多読はできなくなってきましたので、好きな本を少しずつじっくり楽しみたいものです。何度も戻って振り返ったり、同じ本を読むのもいいですね。コロナで図書館にも映画館にも行かなくなりましたが、その分手持ちを再読する時間が持てたのは幸いです。映画も古いビデオを借りたり、在宅でサブスクを活用したり、これまでにない楽しみを見つけています。
先日トリュフォーの『華氏451』を観たのですが、リメイクもあるようですのでそちらと比べようと思っています。
ほんとですね。いい感じです(笑)。
体力が要るんでしょうね。私は4輪の免許も持ってませんからバイクの運転なんて想像もつかないんですが、無理をなさらないんですから大丈夫でしょう。
いろいろ教えていただいたのは私も同様です。皆さんのレビューを読んでもっと読書の幅を広げたいんですが、いろいろと手を出しすぎたもんですから、仕事して勉強して原稿を書いて映画を観て、とやっていると時間の余裕がなく、少し余裕をもたなければと自戒しています。
『華氏451度』は、子供のころ図鑑に載っていた超縮約版であらすじを読んだのが初めですが、後でよく考えるとその挿絵がトリュフォーの映画そのままでした。あの映画は雰囲気がいいんですよね。色彩とか、あとどこかノスタルジックで。モノレールかなんか出てきますでしょ。
地震で目が覚めてしまいました。色々と災害がありますが、地震はなかなか対策が難しい。
余裕がなくなって、義務のようになっては本末転倒ですよね。書評サイトに登録して書き始めた頃は、たくさん読んでいいカッコしたいと思ったものですが、最近はじっくり読むんでいいや、と思いつつあります。消化力も落ちていますので、大食いはお腹を壊す元ですから。
多読する時期もあるのでしょうが、もうそんな時期ではなさそうです。
ノスタルジックでしたね。未来を描いたSFのはずなのに。
そこが意図したものなのか、トリュフォーの描き方なのか、分かるほど詳しくないのでリメイク版も観ようと思っています。『宇宙戦争』が古い作品も、リメイクも面白かったです。最近せっかくだから映画の感想も忘れないようメモを残すようにしていますが、これもやり過ぎると余裕がなくなって本末転倒です(笑)
保留中ですがトリュフォーはディストピアの中での恋愛映画のようで。
かなり強い地震だったみたいですね。お家は大丈夫でしたか?
地震はほんとうに怖いですよね。先日、映画は観ていても原作は食わず嫌いで読んでいなかった左京の『日本沈没』を読み、ついでに一色登希彦という人のコミカライズ版も読んだんですが、地震の描写を続けて読んでいると、じんわりと怖くなってきます。
私もゆっくりになりました。よく考えると、むしろ若造だった頃はゆっくり読めなかったんですね、先へ先へと行ってしまう。文体や物語のディティールを味わう能力がなかったんだと思います。今はすこしはマシになったので、ゆっくり読んで楽しめるようになりました。
リメイク版、私もレンタルで探してみます。『宇宙戦争』の古い方は、ジョージ・パル製作のやつですよね。たしかあれは観てないんですよ。テレビで見逃してから、なかなかレンタルでも巡り合わず・・・こっちも探してみます。
ご心配いただきありがとうございます。以前本棚が崩壊してひどい目にあってから、大分強化してありますので、ウルトラマンや仮面ライダーが倒れたぐらいですんでおります。
『日本沈没』怖いですね。私は映像作品の方を見ていないので、そちらに手を出そうかと思っているところです。
映画はアマゾンプライムの便利さを堪能しております。旧作とリメイクを比較するなどこれまで億劫でしてこなかったのですが、サブスクのお得感にあれこれ見ています。『宇宙戦争』は両方ありました。『451』は旧作はなかったのでまずそちらをレンタルしてきました。
>若造だった頃はゆっくり読めなかったんですね、先へ先へと行ってしまう。
バイクも同じなんです。遠くへばかり行きたくなる。でも若い頃にそれを経験しておかないとゆっくり味わうことに気づけないのかもしれません。
何が好きなのか。何があっているのか。それを確かめるために必要だったのかもしれませんね。
そうですか、よろしゅうございました。
と思ったら今度は東京で地震だったようで。関西には最近来ておりませんので、なんだか不気味です。
そうですね、レンタルビデオ店がどんどんなくなっていくので、私も今の店の主な作品を見尽くしたら、プライムの利用でも検討しようかと思っています。
『日本沈没』は、小松左京が政治的に保守のレッテルを貼られたこともあって、作品の評価としてどうも損をしてきたという気がします。読んでみると、政治的な含意云々は別にして、やはり傑作には違いないと思いましたね。
最近は都会の雑踏がますます嫌になり、京阪神から離れて篠山市とか丹波市、京都の亀岡市など、ひたすら田畑が広がるような地域にばかり出かけています。食事も行列を避けて何の変哲もない食堂に入ることが多くなりました。何でもないことで楽しめるようになるのは、歳を取った功徳ですかね。
不気味ですね。秘密結社が例のテレビドラマの番宣でも仕組んでいるのでしょうか。
ランピアンさんは車を運転なさらないと先日お聞きした気がしますがすると列車でお出かけですか。それもいいですね。昼から美味しい蕎麦に日本酒をひっかけたりして。池波みたいです。
私も若い頃は人並みに都会に憧れて大学に行きましたが結局人ごみに慣れぬまま帰って来てしまいました。朝の列車の殺気だった雰囲気···最初乗れませんでした。
そのままバイクの免許取って気ままにあちこち出かけるようになって今でもやめられませんが、あちこち行くよりいつもの所の季節の移り替わりを楽しみたいと思うようになってきました。本の再読のようですね。
そろそろ紅葉になってきたので、今朝も出かけてきました。曇りであまりにいい写真は撮れませんでしたが。
https://marbletakarabako.blog.fc2.com/blog-entry-484.html
どこまでも続いて解散通知かと思いました。サイトの使い方間違っているよ‼とか。
ランピアンさん、『歌声の消えた海』見ましたが、残念ながら該当のセリフはドラマにはなかったですね。やはりノヴェライズ独自のセリフですかね。
多分子供の頃に民放で見たはずで、記憶にあるシーンもいくつかありましたが、見覚えのないシーンもありました。単に記憶力の問題でもあるのでしょうが、時々コロンボの声が違っているところがあるので、再編集&再アフレコだろうか、と想像しました。
船上という閉じた状況、警察機構の使えない孤軍奮闘。そして登場するのかしないのか、最後まで思わせ振りな「うちのかみさん」の存在。当時も毛色の変わった回と思ったような記憶が。
400CCともなると、noelさんもホンモノのライダーですね。
マーブルさんのブログを拝見すると、身軽に動けるバイクはやはりいいですね。スピードと無縁の私としては、お二人が羨ましいかぎりです。私の遠出は、ひとえに運転が大好きな家内のおかげですので。
なのでご指摘のとおり、蕎麦に冷酒が大好きなんですが、これはたまに電車で出かけた時だけですね。篠山市には有名な蕎麦屋があるんですが・・・。
私も満員電車は大嫌いで、何より本が読めないのが苦痛なんですね。幸い東京勤務時も関西でも、ひどい満員電車に乗ったことは余りないので、有難いと思っています。
やはりノベライズだけなんですかね。あれもリンクとレビンソンによるものなので、勝手な設定ではないはずなんですが。ノベライズを読むと、コロンボはコンビ組むのが嫌いで上に睨まれてるが、とにかく犯人を逮捕するので黙認されてる、なんて書いてあったりして、なかなか面白いですね。
奥さまの運転であればそうそう蕎麦に日本酒とはいきませんね。助手席で寝られるのも嫌なドライバーもいますからね。
コロンボ『歌声の~』の船の旅や鉄道の旅も憧れるのですが、おっしゃる通り身軽さを取ってしまってなかなか選択肢に入りません。地方都市で鉄道網の脆弱さも一因かと思いますが習慣性という部分も大きいようです。徒歩や自転車で行ける距離であってもつい、車を使ってしまう。家族それぞれが自分専用の車を所有しているなど。
コロンボのノベライズ版は実際に筆を取っているのは誰なんでしょうね。以前の『構想の死角』の書評でも話題になったのを思い出しました。
録りためてはいるのですが、つい見そびれていたものを見る機会をいただきました。時折見るようにしたいと思います。
今朝は映画『地球最後の日』を観ました。『451』のリメイクを観ようと思ったら有料だったのでやめました。(笑)お勧めで『最後の日』が出てきたのでそちらを視聴
そうなんです。家内も酒は好きなので、私だけ飲めません(笑)。
バイクの身軽さは魅力でしょうね。船や電車は「乗り物」とはいい条、かなりの距離が徒歩になりますが、バイクはいわば身体を直接移動させられるわけで、独特の魅力があるんでしょう。
多分ゴーストがいるんでしょうが、さすがに脚本家のOKは取ってるだろうと勝手に思ってます(笑)。ドラマにはない記述は見しますが、あまり違和感はありませんでしたので。
丁度『古畑任三郎』も放映されたので、併せて観ると「コロンボ」の影響の大きさがわかりましたね。「犯人しか知らないはずのことを押さえてしまう」コロンボの推理法を応用した作品が多いですからね。
『地球最後の日』、米国らしい選民思想はともかく(笑)、面白い作品でした。藤子不二雄の『箱舟はいっぱい』映画『妖星ゴラス』など、日本への影響も大きい作品ですね。
>犯人しか知らないはずのことを押さえてしまう
まさしくコロンボのテクニックですよね。いつも余計なこと言わなきゃいいのに、と思いながら見ています。(笑)
調べてみると細かに調べて掲載してくれているサイトがありますね。チリをいつ食べたとか。趣味は何だとか。手当たり次第に見ているので、こういう系統だった調査をなさる方には感心してしまいます。
『最後の日』の人種的な問題は取り上げられているところもありますね。時代的なものなのか、アメリカ特有なのか。スタートレックでは人種に配慮が見られた設定だったと思うのですが、それも人種問題がクローズアップされる時代ゆえの忖度だったのか、理想主義的な製作上の理念だったのか。
そんなに前に読んだわけでもないのに、自分の書評を読んでも映画との違いをあまり思い出せません。気になるのでそのうち読み直そうかな、と思ったりしています。
吉川『武蔵』を読み始めちゃったんですよね(^^;
コロンボは作品の質と数も凄いし出演者も豪華だから、超マニアが発生する条件が揃ってますね。キャラクターも魅力的で、人情家なんだけど、じつは狷介な人間嫌いにも見えなくはない。人物造形の妙ですね。
人種問題なのか、キリスト教の影響か、難しいですね。環境問題についても、その底流には非西欧人に対する人種差別があるとする論者もいますしね。
『武蔵』お読みになってるんですね。マーブルさんの精神の柔軟性には感服します。武道小説の二大傑作である『武蔵』と富田常雄の『姿三四郎』は、後世に与えた影響も大きい。
日本には伝統的に、時流に背を向け自身の狭い価値観に閉じこもる男を格好いいと捉えるヒーロー観があります。例えば『七人の侍』でも、勘兵衛は出世に失敗した喪失感を抱えてますが、久蔵にそれを感じないのは、たぶん彼が剣技の鍛錬以外に興味がないからで、そこがカッコいいわけですが、その源流が『武蔵』ではないかと思うんですね。
『姿三四郎』は読んだことないですね。子供の頃は映像作品もあって耳にすることもありましたが最近は聞かないですね。高校ぐらいですか、漱石が書いたのか?!と驚いた気がしますがありがちな勘違いですね。
実はそろそろ『五輪の書』を読もうと買ってあるのですが、話題に出たついでに吉川武蔵も同時に読んだら面白かろう、と再読です。
冒頭に吉川の言葉が載っていて、作品の肝を語っているのですが前回読んだときはここの重要性に気づいていたかどうか。筋を追うのが忙しくて見逃すか、あるいは読み終える頃には忘れたか。娯楽作品でありながら、求道の姿に考えさせられる。やはり傑作ですね。
亡くなった義父の蔵書に愛蔵版があって、当時の新聞連載時の挿し絵が全て見られるんです。重くて読むのはしんどいので、文庫を読んでいますが挿し絵をチラチラ見るのも楽しいです。
外国の俳優に詳しければコロンボももう少し違う楽しみ方もできるのでしょうけれど。
そうですね。『姿三四郎』は黒澤の処女作として有名ですが、わたしが小学生の頃に三浦友和主演で映画、勝野洋主演でドラマになりました。ドラマを観て原作が読みたくなり、図書館で借りてきたのですが、難しいながら面白くて、一気に読んでしまいましたね。
話の骨格は事実に基づいているので、実在の人物がモデルの登場人物がいたり、主人公三四郎のモデルとなった西郷四郎という人物も、宮崎滔天とともに大陸浪人になったりした興味深い人物だったりと、背景も非常に面白い。
私は古めかしい物語が大好きなので抵抗はなかったのですが、『姿三四郎』を読んでる人には会った経験がないですね。まあ、武道小説はもう前時代の遺物ですからね。
武道小説の面白さって細部にありますよね。たとえば登場人物の強さを描くために、どういう描写をするか。下手な作家は大げさな場面を設定しますが、上手はさりげない描写で強さを表現してみせる。そこが面白いですね。
多分勝野さんのドラマを見たはずですがそれもあまり記憶になく···柔道一直線とごちゃごちゃです。
現代でもスポーツもののマンガなどは流行することがありますが、武道系は割合が低いですかね。昔はボクシング、空手などもありましたし、村上もとかの剣道ものもありましたよね。
あまり読んではいませんが修羅の何とかとか、格闘技のえーー何かありますね(笑)
武道系は人気がないのか、単に他のスポーツが人気があるのか。
単独で強さを求めるよりも、チームでそれぞれの持ち分を占める無理しない個性の時代の象徴なのか。
しかし熱があるときにそんな面白い本を読んでさらに熱が上がったりしなかったのか、逆にグングン回復したのか、気になりますね。
私は逆に『柔道一直線』を観てないんです。歌は知ってますが・・・(笑)。
たしかに武道マンガは少なくなりました。かつての繁栄の理由は、やはり梶原一騎の存在と、彼が仕掛け人となった第一次格闘技ブームの影響が大だと思います。
また、正式な競技人口がどうか知りませんが、格闘技人口の裾野が狭くなっているのではないかと思います。昔は私のように、向う見ずにいきなり空手などの道場の門を叩く青少年が多かったのが、今は格闘技は観るだけでやらない、という若者が増えてるのでは。
仮に長続きはしなくとも、昔はそういう子供たちが格闘技=武道マンガの人気を支えていたような気がします。
今は格闘技以外にも、楽しいことはほかに色々とありますし、やはり一人で黙々とやる武道をやってると、仲間から「変なヤツ」認定されやすいのでは。コミュ力が大事なこの当世、「男はひとりで往くものさ♪」なんて価値観は、我々の世代までなんでしょう。
私は歌は覚えがなくて・・・いや、ストーリーもさっぱり。
覚えているのは「地獄車」くらいです。
そう言えば従弟たちと実家で遊んでいてガラスを割ったのは、もしかすると柔道一直線ごっこをしていたのかも。
調べてみたら『柔道一直線』も梶原一騎だったんですね。
そして仮面ライダーとの縁も。色々と面白い事実を知ることができました。
柔道。ボクシング。そしてカンフー。
ブルース・リーも憧れました。
コミュ力がありがたられる現代は、コミュニケーションが上手くいかない現実の裏返しであると思うのですが、格闘技が流行らないはどうしてか。肉体よりも武器を用いる方が効率的との判断ですかね。
そういえばタツノコプロ作品で「紅三四郎」ってアニメもありました。主人公が遣う武術は今でいう総合格闘技で、結果として未来を先取りした内容になってました。
ある意味で「仮面ライダー」アクションの原型になったんですね。これは初耳でした。
たぶん少なからぬ人が考えていると思うのですが、梶原一騎が日本人の精神史に与えた影響は、なまじの知識人や思想家よりもはるかに大きいんじゃないかと思います。とにかく我々前後の世代の青少年の人生観に及ぼした影響が大きい。毀誉褒貶ある人なので評価がされにくいのですが、日本の思想史を考える上で避けて通れない人だと思っています。
格闘技が流行らなくなった原因の一つは、個人的には『北斗の拳』じゃないかと思っています。あの作品が武術を肉体の闘技から、ファンタジーへと転化してしまったような気がするんですね。格闘技をゲームやRPGの世界に取り込む契機になったんじゃないかと。
アクションを担当した大野剣友会が、そのまま仮面ライダーのアクションに引き継がれています。
また、柔道一直線の主人公のライバル役で出演した佐々木剛さんが2号ライダーとして仮面ライダーに出演しました。あの有名な変身シーンも、柔道一直線で使ったポーズから派生しているようですよ。
佐々木剛さんの役名は、主人公のライバルということで佐々木小次郎から取ったということで、これまた旬な話題です(笑)
北斗の拳ですか。確かにブルース・リーを見ていた頃は彼のように体を鍛えれば、強くなれると錯覚していましたが、ケンシロウは・・・そうですよね。
格闘技ゲームもありましたが、あれはいつの頃でしたかね。私はあまりゲームをやらずに来たので。その技も現実的ではなくて、北斗の拳風だったかもしれません。
梶原一騎の作品に詳しくないですが、調べてみれば自分の過去に与えた影響もあれこれ探ることができるかもしれません。
大野剣友会、懐かしいですね。子供の頃は「剣の友だちの会って何だろう?」と思っていました(笑)。
しかしスタントマンの力って大きいですよね。今は昔、1989年公開の『将軍家光の乱心 激突』という時代劇がありまして、この頃にはとうに時代劇は衰退していて、緒方拳はじめ出演者にチャンバラの名手はいないんですが、それでもどうにか見られる殺陣になっていたのは、今思えば斬る側でなく斬られる側が上手かったんですね。
たしかJACがスタントに入っていたはずで、彼らが主演陣の技量を補っていたんでしょう。戦隊ものなど特撮にも欠かせない存在でしたね。
いま梶原一騎原作の『ピストン堀口物語』を読んでいます。初期の佳作で殆ど知られていませんが、これを読むと彼の格闘技への理解が相当に深かったことがわかります。彼の『空手バカ一代』がなければ、スポ根マンガはもちろん、現在の日本格闘技界の隆盛もなかったでしょうし、偉大な創作者でした。
縁の下の力持ち的な存在ですが、その重要さは明らかですし、近年はその存在にもスポットが当たって来ていますよね。
主役級の役者がスタントなしで演じる、というのも注目されますが、やはり多くのスタントマンに支えられているわけで。
特撮好きだとスーツアクターの活躍も気になるところです。ウルトラマンになっていた古谷敏さんも苦悩も胸に迫るものがありましたが、大野剣友会が子どもの夢を壊さぬように、マスクを被っていてもヒーローらしく振る舞うことを要求していた逸話も感激です。
最近のアクションはワイヤーアクションやCGが多くなって、原始的でも生身の身体がぶつかる迫力が減ってしまった気もします。
私はヒョロヒョロ君としてアクションや格闘技に離れたところから憧れていたわけですが、ランピアンさんはもっと身近で見てらっしゃったんでしょうね。
『セブン』の古谷さん、今見てもとにかくカッコいいですね。
しかし昔の俳優さんはマジメでしたね。子供向け番組でも手を抜かない。黒部進さんが『マン』で小林昭二さんに「手を抜くなよ」と〆られたと述懐してましたが、宮内洋さんなんかも、24時間いつもヒーローだったといいますね。
むろん今の俳優もマジメでしょうが、今は特撮俳優のステータスが昔より高いですから、しぜん頑張りますよね。「ジャリ相手」といわれながら真剣だった昔の俳優たちには頭が下がります。
臆病を治そうと高校生になってすぐ空手の極真会館に入門したんですが、どうも馴染めませんでした。空手は規定の稽古が終わった後の居残り稽古が大事で、先輩に可愛がられてる連中はここで伸びる。私はこれが苦手で仲間の輪に入れず、結局は止めてキックボクシングに再入門しました。結局強くもなれませんでしたが、格闘技って存外頭を使う訓練になるので、今も結構役に立ってますね。
でしょうね。たしかウルトラQにもちょっと出られてますよね。
セブンの上西さんと比べると、明らかにスタイルが日本人離れしていて、当時はちょっとない体形だったんでしょうね。
たしかに今やライダーは若手の登竜門ですから、特撮出身といっても恥ずかしくないんでしょうね。ただ、金城さんや上原さん、佐々木守さんが脚本を書いてたマンやセブンのような、伝説的な作品はもう出ないでしょうね。
バリバリの左翼だった佐々木守さんが脚本を書いた『アイアンキング』なんて、物語の軸が民族紛争で、結局は天皇制批判につながっていくような話ですから、ほんとに子供向けかと(笑)。
さすがに頭突きではありませんが(笑)、キックボクシングは団体ごとにルールが微妙に違い、私のいたジムでは頭突きがOKというので、入門時に驚いた記憶があります。使ったことはないですが。
丸山なんてお薦めしたので申し訳ないと思ってましたが、よろしゅうございました。
ケムール人やラゴンを演じてましたね。これまたスーツの中で。>ウルトラQ
アイアンキングはそんな内容でしたか。
ムチを振るっているのと、水をがぶ飲みしているところぐらいしか覚えていません(笑)
そもそもビデオもなかった時代、ちゃんとすべて見られていたかも記憶がないんですよね。
丸山はご紹介いただいたとおり、文章が難しい(読解しにくい?)ですよね。( )で挿入された文や、━で逸れてしまったわき道をかき分けかき分けしながら数ページずつ読んでいます。謎解きに似た刺激がありますが、いずれあまり理解はできていないと思います。
それにしても知らない世界が広くて楽しいですね。
NHKで『ウルトラQ』の再放送を観たら、古谷さん、ノンクレジットながら顔出しで出てましたね。「ゴーガの像」だったかな。やはりカッコいいですね。
『アイアンキング』は、大和朝廷に討滅された先住民族が、日本政府に独立戦争を挑んでくるというストーリーですから、イデオロギーが透けて見えるんですね。佐々木さんは大島渚の左翼映画の脚本書いてた人ですから、もともとあっち系なんですね。
『ウルトラQ』の最終回「あけてくれ!」の脚本は小山内美江子ですが、ああいう現代文明批判が『金八先生』の底流にもあったんだと思うと、なかなか興味深いものがあります。昔の作品には良くも悪くも「濃い話」が多いですね。
丸山は社会科学者にしては名文家といっていいんですが、なぜか読みにくいんですね。私は今風の文章より古めかしいほうが好きなので、苦にはならないんですが。日本の思想史には独特の文脈がありますが、慣れれば苦にならないと思います。
まさに仰るとおりで、現在そのままでは通用しなくなったために、その価値自体が低くなったように見える理論や思想であっても、理解しておいた方がいいものは数多くあります。生物学でいえば今西進化論などはそうでしょうね。
というのも、思想というのはしぶといもので、過去のものとなったはずの思想が根強い影響力を持ち続けたり、後世に甦ってくることがよくあります。ケインズは言っています。「自分は現実的であって、どのような思想からも影響を受けていないと信じているものも、いまは亡き経済学者の奴隷であるのが普通だ」と。
私は博識というにはほど遠く、思想史のほんの一端をかすめたにすぎませんが、思想史を学ぶことはいわば人類の思考のパターンを収集・整理するようなものなので、自分の思考もすっきりしてくるメリットがあります。
ケインズはこうも言ってるそうです。「思想史を研究することは、人間精神の解放にとって必須の準備作業である」。

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外国人材を「組織を強くする戦力」へ変換する方法とは?

心の中に入り込み、病の元になっている絡みを除去する。現実には不可能な治療方法。内容は空疎。

気持ち悪かった。ピョコルンという死んだ人間から作り出したかわいいペットが性欲処理、出産、家事代行などの人が嫌がる仕事を受け入れる穏やかな世界。これには吐き気がした。

ビジネス書としても読めますが、異文化コミュニケーションの在り方について 書かれている本としても、読める作品だと思いました。

「物語ることは生きるという行為であり、物語ることは抵抗であり、物語ることは私たちの記憶を形作るのだ」とリフアト・アルアライールは言った。彼の、彼らのあげた声に、読み手はどう応えるべきか考え続けている。


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