作家の柳美里さんは、2015年に福島県南相馬市に移住しました。4月7日に放送されたNHK福島の『はまなかあいづTODAY』の中で、彼女のインタビューが紹介されていたのですが、福島に係わりを持つようになったのは、鎌倉に住んでいた2012年に南相馬市のひばりFMからパーソナリティの要請があったことはきっかけだそうです。6年間に600人の人と対談したのですが、「生活の中に苦労があるなら、生活の場が鎌倉でいいのか」という疑問が湧き、2015年に移住してきました。現在は、「自己表現をみがく」というテーマで授業をしてきたこともある小高産業高校の近くで、「フルハウス」という名の本屋を開いています。JR小高駅と小高産業高校の間には、店らしい店がなく、日が短い冬の間は生徒の帰宅時には暗くなってしまうので、「明りがともる店が必要ではないか」がお店を開いた理由だそうです。正に、生活に密着した発想です。彼女の福島の日々を綴った最新のエッセー集『福島県南相馬市小高区東町1-10』の題名は、この本屋の住所から来ています。
そういう地元密着の活動の一方で、昨年暮れからシカゴ大学と協力して、彼女は、第二次大戦中のアメリカにおける日系人の苦難を、関係者にヒアリングをしながら、戯曲としてまとめる作業をしています。強制収容された日系人は12万人いたそうですが、解放後に西海岸に戻ってはいけないと言われ、止むを得ず中西部に留まった者も2万人いたそうです。『OBON(お盆)』という題のこの戯曲は、夏にアメリカで初公演をすることを目指しているそうです。その後、福島でも公演をすることを企画しているそうですが、この題材を扱う理由を、だいたい次のように述べています。
「家を突然奪われて、手に持てるだけの荷物と一緒に、各地を転々とするのは、原発事故の避難民に通じるものがあります」
私は今は福島県の片田舎に住んでいますが、東京に住んでいた頃は、原発事故で避難した方々が元の土地に戻れなくても仕方ないと思っていました。と言うか、チェルノブイリのように、そもそもそれは無理だろうと思っていました。しかし、福島に引っ越してきて、突然、何もかも放り出して、家を去らなければならない状況というのが、どれだけ残酷なことなのか、少しは理解するようになりました。
考えてみれば、このように慣れ親しんだ家や土地から強制的に切り離された例は、歴史上では珍しくありません。1989年刊の本書で語られるのは、アパルヘイト体制下の南アフリカでの出来事です。1943年に南アフリカに生まれ、反アパルトヘイト運動に携わったために、イギリスに亡命した作者ビヴァリー・ナイドゥーが、処女長編『ヨハネスブルグへの旅』(1985年)に続いて発表したもので、物語の直接的なつながりはありませんが、多くの登場人物が再登場していますから、前作を先に読まれた方が良いと思います。
ボフェロング村に住む、前作では13歳だったヒロインの少女ナレディは、15歳になっています。前作では、ヨハネスブルグへの旅を通じて、それまであまり意識していなかったアパルトヘイトの実態を知り、村の学校教育にもそれが反映されていたことに気づきました。
本書では、住んでいた村人たちが、いきなり自分たちに立ち退き命令が出たことを知る場面から始まります。村人たちは小作人でしたが、地主のセケテ村長が、白人政府の<お役所>に言われ、村人たちには何も説明せずに、それを了承したのです。村人たちは村長に抗議して、その夜、集会を開きます。村長は皆が<ホームランド>へ行くことになると説明します。<ホームランド>とは、ツワナ語を話すツワナ人の居留地として、政府が定めた場所でした。ただ、この村に住んでいるのはツワナ人だけではありません。他の民族は、それぞれの<ホームランド>に行くとのことです。続けて、村長は説明します。
「村長や村長の兄弟は地主なので、何か月か前に移住計画の話を聞いたこと、(中略)地方長官の話では、村人たちはみんな地代を払っているものの小作人なので、法律では<無権利居住者>とみなされて、先祖代々暮らしてきた土地ではあってもそこにとどまる権利はないこと、村長は移住先の村を見につれていってもらったこと、その村の一部はかつて白人の農場だったこと、<お役所>の人が、移住までには村人全員の家を政府が建てるという約束をしたこと」
ところが、そこで、サウル・ディコーベという、最近刑務所から釈放され、この村へ追放となった男が発言します。
「その<家>と呼ばれているものがどんなものか、知っているかね?やつらが話していたのは、どんな種類の<家>だったかね?4枚のトタン板に屋根がついて、厚いときは焼き肉みたいにじりじり焼かれ、寒いときには氷みたいに凍えなくちゃならないってやつかね?それとも、木でできたトマトの箱で、すきま風がピュウピュウはいってくるやつかね?さあみなさん、われわれの村長がそんな<家>に住むつもりかどうか、聞いてみようじゃありませんか」
村長は、しぶしぶ「わたしの一家は地主なので、<埋め合わせ>に、以前は白人の一家が住んでいた家をもらう」ようになっていることを認めます。
しかし、問題は<家>だけではありません。飼っている家畜は?学校は?病院は?墓地は?皆の心配は尽きませんし、満足のいくような答えは、得られません。そして、会合の後、なんと村長とその家族は村から逃げだしてしまいます。
ナレディは、ヨハネスブルグへ行った時に知り合ったグレイスという反アパルトヘイト運動に携わっている女性と文通を続けており、こうした時には、黙って何もしないでいるだけでは、結局権力者の思うつぼだというのは理解していました。ナレディは、同じ中学の上級生のタオロとも相談し、中学校の生徒たちで平和なデモ行進をすることを計画します。弟の通っていた小学校からも、自主的に参加する生徒がでてきました。しかし、デモ行進を始めたナレディたちを待っていたのは、猛犬を連れ、棍棒をもった警察官たちでした。
本書は途中から読むのが辛くなります。権力者による老若男女を問わない相手への暴力や、衆人環視のなかでの警察によるタオロの殺害や、嫌がらせ―年金を<ホームランド>でしか受け取れないようにする、村への水道栓を閉める等―の描写が続くからです。そして、結局のところ、警官隊が見守る中、ブルドーザーによって村の家は次々に壊され、村人たちは強制的に<ホームランド>に移住させられます。ナレディたちの抵抗は失敗したかのようです。でも、ナレディは戦いは始まったばかりだと、自分を鼓舞するのでした。
南アフリカでは1993年12月までアパルトヘイト体制が続きました。本書の訳者あとがきは、1994年初めて全人種参加の選挙が行われた時の様子から書きおこしています。
「南アフリカ共和国の各地の投票所の前には、長い長い列ができました。生まれて初めての投票を行おうとして、その列にしんぼう強く並んでいる黒人たちの表情は、明るく晴れ晴れとしていました。(中略)この本の原作が書かれたのは1989年のことですから、本の中では15歳だったナレディも、16歳だったタオロも、選挙のできる年齢になって、投票所の前の長い列にいたのかもしれません。この物語はフィクションですが、南アフリカには実際に何万人というマー・チャディや何万人というラー・ランプーがいて、そして何万人、何十万人というナレディやタオロやティロがいたからこそ、あの日の投票があったのです。もちろん、闘いの中で殺されていったサウルのような人もたくさんいました」
この選挙の結果、ネルソン・マンデラ大統領が誕生したのは言うまでもありません。
本書を今読むと、ついこれが書かれた時代のことを忘れがちになるのですが、海外から非難されながらも、アパルトヘイト体制が強固だった時代に書かれたことを忘れてはいけません。有名な例ですが、チャップリンの偉大な映画『独裁者』の撮影が、第二次大戦勃発(1939年9月1日)の直後から始まり、アメリカで最初に公開されたのは1940年10月15日ですが、その年の6月にはフランスが降伏し、9月には三国同盟が発足していたのを忘れてはいけないのと同じです。
本書は、そもそも児童文学ですし、既にロンドンに亡命していた作者が、海外の少年少女に南アフリカで何が起こっているのか、少しでも知ってもらおうとして書いたものだと思います。ですから、登場人物にいささか類型的な印象を受けることはあるものの、そのラストが、結果的にかもしれませんが、未来への希望をこめた予言となっているのは、やはり素晴らしいと思います。そして、本書で描かれている登場人物たちの苦しみは、現在のパレスチナ人だけでなく、日本の原発避難民にも共通するものだということも忘れないようにしたいものです。
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