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戦争の砲弾によって、体が真っ二つにされ、とてつもなく残虐で非人間的な「悪半」と、とてつもなくやさしくて同じく非人間的な「善半」に分かれた子爵をめぐる、血みどろの寓話。

  • レビュアー: さん
  • 本が好き!1級
まっぷたつの子爵 (ベスト版 文学のおくりもの)
「時代は、まさに、冷たい戦争のさなかにあった。はりつめた緊張感、耳に聞こえぬ呵責の声。それらは目に見える形こそとらなかったが、人びとの魂をしめつけていた。そういうときに、まったく空想の物語を書きながら、知らず知らずに、自分はその特異な歴史的瞬間の苦しみを、またそこからの脱出の衝動を、描き出していた。」(作者の言、本書あとがき、河島英昭『イタロ・カルヴィーノについて』より)

この小説を多少とも理解しようとするなら、やはり書かれた時代(1951年)のことを、思わざるを得ないでしょう。

第2次世界大戦時の欧州と旧ソ連の人的被害、兵士だけでなく民間人も含めた被害の凄まじさについて、日本人はあまり意識していないように思います。もちろん、逆に欧米人が日本の被害について知らない、ということもあるでしょう。ただ、大きな違いは、現在の日本国の領土内では、沖縄を除いては、民間人を直接巻き込んだ大規模な地上戦はなかった、ということでしょう。これに対して、欧州戦線では、人が住んでいた土地で、常に戦闘が行われた、と言っても過言ではないでしょう。

イタリアの場合、更に悲惨だったのは、ファシスト派と反ファシスト派が、同一民族同士で殺しあいを演じた、という点にあります。この様子は、タヴィアーニ兄弟監督の映画『サン・ロレンツォの夜』の中で、隣村に住んでいる者同士が、相手の名前を呼びながら、麦畑で撃ち合う場面で、象徴的に描かれています。

ファシズムという悪がいなくなった後に来た冷戦、資本主義と共産主義の冷戦が、そういう悲惨な準内戦を実際に経験してきた、カルヴィーノをはじめとする、イタリア文学者に与えた、一種の憂鬱は軽いものではなかったのでしょう。自らもパルチザンとして戦闘に参加した、共産党シンパだったカルヴィーノ自身も、1946年の処女作『くもの巣の小道』以来沈黙していましたが、最も残念な出来事は、生きていれば、大作家として名を残したであろう、チェーザレ・パヴェーゼの自殺です。

そういう事を頭に置いておくと、この血なまぐさい寓話の怖さと当時の知識人の悩みが、より理解しやすいでしょう。

この作品は1716年のトルコ対オーストリア戦争に、イタリアから、キリスト教(!)陣営に参戦した、語り部である「ぼく」の叔父メダルド子爵の物語です。

本書は、戦場の凄まじい描写から始まります。

冒頭で、戦線に向かう途中、こうのとりが多く飛んでいる事に気付いた子爵は、その理由を従者のクルツィオに尋ねます。

「『あれも人間の肉の味をおぼえてしまったのです』従者がこたえた。『すでに久しいまえから、飢饉は田畑を枯らし、日照りは河川をからしてしまいました。かっての烏や禿げ鷹にかわり、死骸の横たわるところに、こうのとりや、紅鶴、丹頂鶴が、姿をあらわしたのです』」

子爵は質問を続けます。

「『では、烏は?禿げ鷹は?』かれはたずねた。『そしてほかのどう猛な鳥たちは?みなどこへ行ってしまったのだろう?』(中略)
従者は口ひげをたくわえ、黒ずんだ顔をして、いちども視線をあげなかった。
『ペスト患者の死体をついばんだため、やつらにもペストがうつったのです』そう言いながら彼は槍さきをのばしていくつかの黒い茂みをさした。目をこらすと、それは灌木の茂みではなく、猛々しい鳥たちのひからびた足や羽の山だった。
『さよう、人か鳥か、そのいずれが先に死んだものか、またそのいずれが先に相手の肉をむさぼり食ったものか判然とはいたしませぬ』と、クルツィオが言った。
人びとは襲いくるペストから逃れるため、家族ぐるみ平原づたいに歩いてきたのだ、そしてそこでついに死の苦しみにとらえられたのだ。荒れはてた平原にもつれあって散らばる男女の死体は、みな裸で桃のつけねがくずれ、はじめはわけがわからなかったように、それぞれに羽毛がつきささっていた。それゆえ、くずれてゆくかれらの腕や肋骨にはまるで黒い羽と翼がはえたように見えた。それらに混じって禿げ鷹の死体もあった。」

更に進むと、馬の死骸が散らばっています。「あおむけに四つ足を空にのばしているものや、うつぶせに鼻づらを土にもぐらせているもの」があり、子爵はその理由を尋ねます。

「『馬は腹を裂かれますと』とクルツィオがわけを語りだした。『はらわたを落とすまいとするのです。そしていきなり腹を地面につけたり、はらわたをはみ出させまいとあおむけになるのです。が、いずれにせよ、死はたちまちやつらをとらえます』」

更に進むと、人間の「肉の破片があちこちに散らばり、とくに指が刈り株の上などに残って」いる場所に出ます。

「『ときどき道を示している指があるぞ』と叔父のメダルドが言った。『あれはどういう意味だ?』
『神よゆるしたまえ。生き残った者たちが指輪をはぎ取るために死者の指を切り落としたのです』」

長々と引用しましたが、ここで語られているは、作者が実際に第2次大戦の戦場で見聞きしたことがベースではないでしょうか。さり気なくても、あまりにも生々しく、実体験なしには考えられないような描写だからです。

戦闘に参加した子爵は、トルコ軍の砲弾によって、体が半分吹き飛ばされますが、残された半身だけで生き残り、悪の化身のようになって、故郷に戻ってきます。犯罪者はどんどん絞首刑にし、目に映る動物や花は真っ二つに切り裂き、あちこちで放火をします。

しかしやがて、吹き飛ばされたと思われていたもう半身が戻ってきます。実は、砲弾は子爵を真っ二つにして、もう半身は「キリスト教徒の三位一体とマホメットのアラーをいっしょうにしよう」(!)と試みている二人の隠者によって救われたのです。こちらは、善良なことこのうえなく、最初は歓迎されるのですが、貧乏人にはただで食物を配れだの、とても聞き入れられないようなことを言うので、「悪半」同様、嫌われ者になってしまいます。

さて、元は一体であった、この「悪半」と「善半」はどうなってしまうのでしょうか。後は、読んでからのお楽しみです。

図式的なことを言えば、共通の敵のために戦った後、二つに分かれてしまう姿は、当時の冷戦の状況そのものだと言えます。そして、本書の最後では、別世界に旅立つ、あるいは逃げ出すことを夢見る「ぼく」は「責任と鬼火に満ちた世界」に残されてしまうのです。これも、現実社会から逃れられない作者の姿の反映ということになるのでしょう。

ですが、訳者の河島英昭も述べているように、展開される世界の凄まじさにもかかわらず、なによりも楽しくて面白い本です。「悪半」「善半」の他にも、素晴らしい腕を持ちながら、絞首刑台や拷問の道具ばかり作っているピエトロキョード親方、ひとだまの研究をしていて、病人はちっとも治さないイギリス人医師のトレノニー博士など、魅力的なキャラクタも数多く登場します。

こういうキャラクタの象徴するものを見るのは難しくありませんが、現実の悲惨な姿を、こういう形にしてしまうと、不思議と楽しめてしまうのは、文学というものの、大いなる特徴なのでしょうね。ですから、まずは楽しく読めれば、それはそれで良いのだろうと思います。

しかし、現在にも通じる普遍的な内容とは言え、当時の状況を理解しておいて、本書を読むことも、やはり重要だとは思うのです。物を作る側は、色々なことを思いながら、創造をおこなっているのですから...。楽しさと同時に怖さも理解しておくことは大事だと思います。

最後に、キリスト教とイスラム教の争いが、何百年も前からあったことは、歴史を振り返れば、当たり前の話ではあるのですが、本書でもあらためて感じてしまいました。残念なことです。


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  • 掲載日:2011/12/18
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