上下巻併せてのレビューです。1976年にワルシャワで生まれた作者ジグムント・ミウォシェフスキの検事テオドル・シャツキ三部作の最終作となります。第一作『もつれ』(2007年)では生まれたワルシャワで働いていて妻子と暮らしていたシャツキですが、そこで知り合った若い女性新聞記者と不倫関係となり、第二作『一抹の真実』(2011年)ではそれが原因で離婚してワルシャワに居づらくなって、単身ポーランド南東部のサンドミエシュ市に転勤するものの、娘のヘレナと会えないことやワルシャワへのホームシックに悩む姿が描かれます。それでも、ちゃっかり(?)同僚の既婚検事とできたりします。本書(2014年)では、ポーランド北部のオルシュティン市に赴任していて、ゼニアという女性と同棲しています。そこへ前妻が新しいパートナーの仕事の関係でワルシャワを離れざるをえなくなり、高校生の娘ヘレナが同居するようになります。ですから、シャツキは家に帰ると「大きな魔女」と「小さな魔女」に悩まされる日々を送っていました。
さて、市の中に11の湖があるのが自慢(?)のオルシュティン市でしたが、サンドミエシュ市と同じで、シャツキの興味を惹くような事件はあまり起こりません。おまけに、見てくれと身だしなみが悪くないこともあって、大嫌いなマスコミを相手にしなければならない広報担当に指名され、「魔女」たちに悩まされていることもあり、フラストレーションがたまる日々を送っていました。そんな時、旧ドイツ軍の防空壕から白骨死体が見つかります。シャツキは旧ドイツ兵の遺骨かと思っていたのですが、検死を担当したフランケンシュタイン博士(!)から、この白骨死体には外反母趾の治療に使われるシリコン製の内部人工器官があった、ということを告げられます。しかも、ポーランドでその種の内部人工器官を製造しているのは一ヵ所しかなく、そこに問い合わせたところ、それと同じものは今まで一つしか造ったことがなく、それを入れた患者は10日前に退院したばかりとのことだったのです。しかし、自然界では死体が白骨化するのに、20年以上はかかるのです。シャツキは、そんな短時間で人体を白骨化するには、どういう方法があるのか調べるようにフランケンシュタイン博士に頼みます。そして、白骨がピヨトル・ナイマンという男と分かったので、念のためのDNA検査も必要ですし、その妻のテレサを訪ねて尋問しますが、旅行代理店を経営していた夫は出張に出ていたとばかり思っていた、と彼女は言います。しかし、シャツキには彼女の話は嘘だらけのように感じられたのです。
一方、フランケンシュタイン博士は、いろいろと実験をした結果、短期間で人体を白骨化するやり方を突きとめます。排水管などを洗浄するのに使われる苛性ソーダだというのです。様々な商品名で顆粒状のまま売られているもので、スーパーを廻ればいくらでも手に入る品物です。水に溶かして使用することになっており、苛性ソーダはタンパク質と脂肪を溶かすのですが、金属や骨は溶かさないというのです。その後で、博士は恐ろしいことを言います。残された骨の状況から判断すると、このナイマンという男は、おそらく金属製の大きな筒のようなところに閉じこめられ、そこに顆粒状の苛性ソーダを大量に流し込まれたのだろう、と言うのです。そこに水を注げばすぐに死ぬはずですが、それはせずに人間の汗に水の代りをさせたのだろうと言うのです。皮膚が傷つけば、人間の体は水の袋のようなものなので、それが「仕事」をするわけです。
犯人が抱いていた憎悪の深さに、シャツキは慄然とします。そして、関係者に尋問をしていて、さらに衝撃的な事実が分かります。ピヨトル・ナイマンは火事で右手の指を二本失っていたのですが、遺骨の指は全部そろっていたのです。すべての骨に個別にDNA検査を行った結果、この遺骨には、ピヨルト・ニアマン以外の人間の骨が混ざっていることが判明します。この遺骨は5人の人間から集めたものだったのです。
「主役となる被害者以外に、脇役として、手の骨の男、片方の耳の女、もう片方の耳の女、さらに通行人役として、そのほかの足りない骨を提供してくれた女」
ここにいたって、この事件の被害者は複数人にわたることがはっきりします。シャツキは、100%信用していたわけではありませんが、何かの参考になればと思い、『一抹の真実』で語られる事件の際、重要な示唆を与えてくれたクレイノツキというプロファイラーをワルシャワから呼びます。クレイノツキは、事件の資料を十分すぎるぐらい調べた上で、なぜこのような殺人方法を採ったのかという点についてこう発言します。
「私の答は火刑ですね。(中略)それはあなたたちの被害者に起ったことは現代版火あぶりの刑だと思うからです。煙も火も出ない、化学的な現代の火刑。この仮説をもとに火刑の歴史を調べていけば、犯人に関してなんらかの結論を導き出せるかもしれない」
そして、クレイノツキは、今回の犯罪と火刑の類似点を四つ挙げたのでした。
一応お断りしておきますと、whodunit は、かなり早い段階で見当がつきますし、本書の主眼ではありません。前作『一抹の真実』では、事件の背景にあるポーランド(そしておそらく欧州)の反ユダヤ主義の根の深さを取り上げた作者ですが、本書では現代社会にはびこるDVを犯行の直接的動機として取り上げています。つまり、第一作『もつれ』よりは、はるかに社会的なテーマに、興味の中心が移っているのです。また、題名は犯人の「怒り」であると同時に、娘のヘレナから「パパを表わす特徴をひとつ選ばないとしたら、それは”怒り”よ」と言われるように、シャツキの「怒り」でもあります。それが、犯人と、それを追う警察の行動の根底にあるという設定が、本書のいちばん面白いところです。
さて、ネタバレにならないように書くとしたら、このぐらいが限度になってしまいます。ただ、追う者と追われる者が、シンパシーとは言わないまでも共通の感情を持つという設定は、そんなに珍しいものではありません。実は、読みながらクリント・イーストウッド主演の某映画を思い出しました。作者ミウォシェフスキがその映画を意識していたかどうかは分かりませんが、比較して論じると興味深そうだとは思うものの、完全なネタバレになってしまうので、できません。この辺が、ミステリーを論じるときの難しさです。
ところで、本書で、シャツキはある大きな間違いをします。夫からのDVを訴えに来た女性を、言うことが一向にはっきりしないので、慇懃に追い返してしまうのです。実は、そのDVが性技に関するものだったので、女性は説明できなかったのです。ただ、シャツキのために釈明しておくと、彼は女性の担当者と替わろうかと一応聞いたのですが、それは女性が断ったのでした。
シャツキには、配下に見習いの「あるのは”論理的な選択”だけ」のファルクという若者がいたのですが、彼にこの女性の話をします。
「大したことじゃない。ここでしばらく働いていれば、きみもただセラピストを探しにきたような人間を相手にするようなこともあるだろう。夫はそのご婦人に何もしていない。ただ、その女性はこわがっているだけで、実際の話、その女性のほうがしっかりする必要がある。夫はすばらしい人間のようだが、家計簿をつけろと言って、彼女を脅しているそうだ。しかし、その女性がそそっかしい人間なら、夫婦としてはそれでちょうど釣りあいがとれているかもしれないな」
しかし、これを聞いたファルコは「虐待の被害者の典型的な例だ」と言い、続けてこう言います。
「その女性が勝手に自分で結論づけてしまっているのか、それとも何かをかくしているのか。多くは後者です」
さらに、シャツキが彼女を家に帰したと聞いたファルコは激怒します。
「ぼくの受けている研修をすべて信じればの話ですが、今のは家庭内の被害者の典型的な言動なんです。検察官に会いにくるくらい切羽つまっていたということなんです。それでも、恥ずかしくてとてもすべては話せない。被害者は何かがまちがってると主張する一方、それは自分のせいだと言いつづける。たとえば、何か証拠を持ってきたのだとしたら、録音テープに吹き込まれた叫び声とか、虐待の内容を細かく記した日記とかあれば、われわれもすぐに危険を察知するでしょう。でも、そうでなくても、このケースは明らかです」
二人は言い合いになります。
「じゃあ、きみの考えではどうするべきだったんだ?」
「あなたは心ある検察官として振る舞うべきでした。大昔の頑固な女嫌いとしてではなく」
「きみにもよくわかっていると思うが、被害者の供述がなければ、われわれには手は出せない」
「なぜです?これは一個人がひとりで告発しなければならないような犯罪ではありません。われわれの役目は犯罪者を社会から葬り去ることです。たとえ、妄想に取り憑かれた妻に襟をつかまれて、夫に犯罪者にしないでくださいと懇願されても」
「供述がなければ、証拠は意味をなさない」
「いいえ。もちろん意味をなします。すぐれた専門家だったら、彼女の態度がよくある被害者の心理状態だったことを即座に読み取っていたでしょう」
そしてファルクは、シャツキの行為を上司に報告すると宣言します。
「今回の例には一般予防の原則があてはまります。われわれは訓練を受けた法律家です。家庭内暴力に何も手を打たなかったら、あなたのようなスター検察官でも罰せられる。そのことを知ったら、ほかの法律家も襟を正すでしょう。あなたに個人的な恨みはありません。それだけは言っておきます」
そして、ファルクは実際にシャツキの懲戒処分申請書をシャツキの上司に提出したのです。シャツキの上司は、シャツキに早急にその女性と会い、問題を解決するように指示します。彼女の家でシャツキが発見したのは、意識不明で台所の床に倒れている彼女と、すぐそばで無邪気に遊んでいる小さな子供でした。
さて、この一連のやり取りと結果をどう考えるべきでしょうか。私見ですが、シャツキの対応は、日本でも多くのストーカー被害者が経験したものではないでしょうか。そして、自分より目上であろうと、懲戒処分申請書を出せるという制度に感心します。日本で、冤罪や部下を自殺に追いやった事件の報道で、いつも気になるのは、組織の非もそうですが、そういう事態を作った個人の非を追求する雰囲気がまるでないことです。具体的に袴田事件を例にとると、担当した刑事や、ただ一人死刑に反対した裁判官に死刑判決文を書かせた他の裁判官は、なにか罰せられたのでしょうか。そうは思えません。もう既に故人となっている人も多いからかもしれませんが、逆にそれを避けるために、えらく時間がかかるように再審制度が作られているのではないかと疑いたくなってしまいます。BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動拡大のきっかけとなったジョージ・フロイドさん殺害事件では、主犯の警察官は禁固22年半、殺害現場にいた他の3人の警察官もそれぞれ3年から5年の禁固刑を受けていますし、当然、警察からは解雇されています。組織に問題があったとしても、犯罪を実行するのは個人であるという考え方が、日本の司法制度には欠けているように感じられるのです。小さいとは言え、こういうことに対する「怒り」は、私の中にもあります。なお、作中には、こんな言葉があります。
「ポーランドは醜い。もちろん、すべてがというわけではないが。どこもかしこも醜い国などありはしない。しかし、おおむねポーランドは欧州諸国のどの国より醜い」
この後で、多少持ち上げ直してはいるのですが、自国のことをここまではっきり書ける作家もあまりいないのではないかと思います。作者自身も、シャツキや犯人同様、「怒り」を抱えていることが感じられます。本書は、そういう「怒り」をテーマにしたミステリーなのです。
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