著者の鶴見さんは1922年生まれ、若くしてアメリカに渡り多くの人と触れ合ってきました。
そんな鶴見さんが80歳になってからそれまでの人生や知人たちとの交流について、岩波書店発行の「図書」に書いたものをまとめたのがこの本です。
それは7年間続いたそうです。
鶴見さんはアメリカハーバード大学卒業ということですが、それに至る経緯は平易なものではありませんでした。
中学校まで日本で非常に激しい非行を繰り返しており、それに困った父君が衆院議員である地位を使って鶴見さんをアメリカ留学に送り出したそうです。
その時にはほとんど英語もできない状態であり、予備校でも最低ラインの成績でどうしようも無かったのですが、その後目覚める体験をして必死に勉強をしてハーバード大学に進学することができたそうです。
そういった波乱万丈というべき人生を送ってきており、その中で出会った人々、出来事を綴っているのですが、後から振り返ると何とか潜り抜けてきたように見えても、一つ間違えればゲームセットとなりかねないようなことだったのかもしれません。
何度か繰り返し取り上げられているエピソードですが、日米開戦間近と言う時に米国に留学している人たちに日本公使館から帰国を促す手紙が届いたそうです。
その時に、鶴見さんは自らの身元引受人であったA.M.シュレジンガー氏に相談に行きました。
その場には同じようにハーヴァード大学講師で在米であった都留重人氏も来ていました。
開戦となれば在米の日本人は拘留される恐れが非常に強いため、その時点で帰国する方が安全という状況だったようです。
しかし、その時にシュレジンガー氏は幕末から明治にかけて欧米からの圧力を乗り切った日本政府の力量の記憶から、このような圧倒的に不利な状況で日米開戦をするような愚かな策を日本政府がするはずはないから、帰国の必要はないと主張したそうです。
結局は帰国しなかった鶴見さんはアメリカの捕虜収容所に収容されることになるのですが、その際のシュレジンガー氏の主張には大きな感動を覚えています。
鶴見さんは多くの欧米の知識人と懇意ですが、ロンドンで社会学者R.P.ドーア氏の車に乗せてもらったことがありました。
その際に雑談のなかで、彼がブライトンに自宅を持ちロンドンにもアパートを一室持っていることを言って、それを「ちょっと贅沢なんだが」と日本語で話したそうです。
わざわざそこで英語ではなく日本語を使ったことに気が付いて、「それは英語ではなんていうの」と尋ねたところ、彼はしばらく考えて「ちょっと、思いつかない」と答えたそうです。
自分の生活が「ちょっとぜいたくかもしれない」というのは、実は明治の日本人の言葉遣いかもしれません。
そして、現代の日本人も使えない言葉になってしまったかも。
すでに亡くなってしまった鶴見さんですが、その残した文章は非常に強い印象を持っているのかもしれません。
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