1498年ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南端喜望峰を回る航路を初めて通過しインド洋からインドに到達しました。
それまでの中東経由の香辛料貿易に取って代わるものとなり、ポルトガルがその主導権を取ることとなります。
それから100年余りの間、香辛料を中心とした貿易を独占したポルトガルですが、オランダやイギリスの台頭、そして中東の貿易路の復興もあり、没落していきます。
その過程を詳しく見た歴史書です。
1543年に種子島にやってきて鉄砲をもたらしたのはポルトガル人だったということは有名です。
しかしそのポルトガル人がどのような立場のものだったのか、あまり関心が向くことはありません。
どうやら組織的な貿易ではなく個人として中国船に乗り込んだポルトガル人商人もいたようです。
ポルトガルは喜望峰航路が開かれると国を挙げて船団を送り込み、インドのゴアやコーチンという町を確保して拠点とします。
そこを押えていた在地勢力は戦艦に備えた大砲の威力で追い払いました。
ただし、その後のオランダやイギリスの方法とは異なり、ポルトガルは沿岸の町に要塞を作りその周辺を本拠地として貿易を行う以上のことはしようとはしませんでした。
そのため、現地人民の反乱等に悩まされる恐れは少なかったとも言えます。
そのような本格的植民地化をやらなかった理由の一つはポルトガルの人口が少なかったということもあるようです。
16世紀のポルトガルの人口は約140万人だったということです。
インドにやってきたポルトガル人は全土で7000人を越えることはなく、16世紀を通じてアジアを目指した人々の数は20万人と言われていますが、ある時点での人口は数千人にとどまり、それだけでは本格的植民地支配をするには少なすぎたようです。
なお、そのほとんどは若い男性で女性はごくわずかでした。
彼らは現地の女性と共に暮らすことを選びました。
彼らを「カザド」と呼びますが、任期が終わっても、あるいは任期中に逃亡し、そのままアジアに止まることがよくありました。
彼らは個人として貿易をするなどの活動をしていました。
日本までやってきて鉄砲を伝えたポルトガル人もどうやらそういった人物だったようです。
アジアからヨーロッパにもたらされたものは、胡椒を主に香辛料だったのですが、ヨーロッパの産品でアジアに売るものはほとんどなく、最初は銅地金、その後は新大陸産の銀で決済したようです。
そのような貿易様態は徐々に先細り、さらに船の製造技術もうまく行かなくなり航海の失敗が増えていきます。
そして新興のオランダ、イギリスが力を増すことでポルトガルの力は削がれていきました。
日本への到達ということで非常に大きな役割を果たしたポルトガルですが、これを見るとその最盛期はほんのわずかな時だけだったようです。
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