やっと、『ボヴァリー夫人』にたどり着いた!
これも、「『ボヴァリー夫人』のここが読みどころ! 訳者・太田浩一さんを迎えて」のイベントのおかげだ。/
だいぶ前にサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』の一、二巻を読んだが、実はそのときはフローベールの作品を一作も読んでいなかった。
今思えば、なんてでたらめな読書をしていたのかと悔やまれるが、そんなわけで、今度『家の馬鹿息子』を最初から読み直すにあたっては、どうしても事前にフローベールの作品を読んでおきたかった。
以前、『三つの物語』だけは読んでいたのだが、やはりそれだけではなんだか足りないような気がしていた。
ちょうどそんなところへ、今回のイベントの情報を耳にしたので、渡りに船と飛び乗ったわけだ。/
この圧倒的な読み心地の良さはいったいどこから来るのだろう?
訳者:フローベールは、音読にたえるような文章を理想としたので、訳文もそれを心がけた。登場人物の性格を反映したセリフ。
これぞ、ミシェル•ビュトールが『レペルトワール』で言っていた「それぞれの声が聞こえて来る文章」だ。/
【シャルルとしては、なぜ自分がいそいそとレ・ベルトーへ通うのか、深く考えてもみなかった。
─中略─
エマ嬢はいつも玄関の階段のいちばん下の段まで見送ってくれた。馬がまだ用意されていないときには、その場に立って待っていた。別れの挨拶を交わしてしまうと、たがいに話すことはなかった。戸外の空気が彼女をつつんで、うなじのほつれ毛を乱したり、腰の上でエプロンのひもをなびかせ、吹流しのようによじれさせたりした。あるとき、ちょうど雪解けのころで、庭の木々の樹皮は水を滴らせ、屋根の雪はとけだしていた。エマ嬢は戸口に立っていたが、日傘をとってきてそれを開いた。玉虫色の絹の日傘に陽光がさし込んで、顔の白い肌がゆらめく反映で染まっていた。暖かい陽気に、傘の下で娘はほほえみを浮かべている。日傘の、ぴんと張ったきらめく絹地の上に、ぽつりぽつりと滴の落ちる音が聞こえていた。】(本書。【】内、以下同様。)/
◯ロシア・フォルマリズム の異化と恋愛:
《生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、》(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』)/
上に引用したのは、ロシア•フォルマリズムのシクロフスキーの「異化」の方法だが、日常生活を「異化」して生の感覚を蘇らせるもう一つの方法がある。恋愛である。/
【ロドルフは少し先にある小さな池のほとりにエマを連れていった。青浮草が池の面に緑の色をひろげていた。枯れた睡蓮が藺草のあいだにじっと動かずに浮いていた。(略)
「ああ、ロドルフ!‥‥‥」男の肩に身をもたせかけて、若い女はかろうじてそう言った。
ラシャのドレスが男のビロードの上着に絡まった。エマはため息を押しころして白い首筋を反らせた。そして意識が薄らぎ、泣きぬれて長ながと身を震わせながら、手で顔を覆って身をまかせた。
宵闇が迫ってきた。枝のあいだからもれる沈みかけた夕陽がエマの目にまぶしかった。(略)あたりは静まりかえっていた。(略)エマは心臓がふたたび鼓動しはじめ、血があたかも乳の流れのように体内をめぐるのを感じた。】/
エマはひたすら情人に愛を求め、着飾り、装飾品を買い集めては、ついに破滅に至り服毒する。
もちろん、すべてエマが悪いのだ。
だが、そんなことを言ってみたところでいったい何になるだろう?
エマはこのように生きてしまったのだ。
フローベールは、死にゆくエマの最後の瞬間を異様な熱心さで描写する。
まるで、彼はこう言っているかのようだ。/
《もちろん生涯はひとつの崩壊の過程である》(フィッツジェラルド「崩壊」/フィッツジェラルド作品集 (3)/渥美昭夫、井上謙治訳/荒地出版社/1981年)/
【シャルルが入ってきたが、ふたりは目をさまさなかった。妻に最後の別れを告げにやって来たのだった。
─中略─
月の光のように白い繻子のドレスの上で、きらめく波紋が震えていた。エマの姿はその下に隠れていた。シャルルには、エマが自身の外へ拡散していくように思われた。そして、周囲をとりまく事物のなかに、夜のしじまのなかに、吹きすぎる風のなかに、たちのぼるしっとりとした香気のなかに紛れ込んでいくような気がした。
やがて、ふいにエマの姿が目に浮かんだ。トストの家の庭の、茨の生垣のそばのベンチに腰をおろしている。かと思うと、ルーアンの街なかに、いまの家の戸口に、レ・ベルトーの庭にその姿があった。(略)
こうしてシャルルは、長いあいだ、過ぎ去ったすべての幸福を、エマのおりおりの物腰、しぐさ、声音を思いうかべていた。悲痛な思いは、あたかもおし寄せる上げ潮のように、次から次へと際限もなく胸につきあげた。】/
おかしい。何か変だ。
普通の恋愛小説なら、ヒロインの悲劇的な死で物語は終わるはずだ。
フローベールは、なぜエマの死後のシャルルや人々の後日譚にページを割いたのだろうか?
物語は、シャルルの死を待ってようやく終わりを告げる。/
ゴキブリ亭主としては、悲劇のヒロイン:エマよりも、エマに裏切られても、そんなこととはつゆ知らずエマを愛し続けるシャルル•ボヴァリーの姿に、どうしても身につまされてしまうのだ。
「シャルル•ボヴァリーは私だ」。/
ここに至って、シャルル•ボヴァリーの姿は、奥様の娘ヴィルジニーを愛し、甥っ子のヴィクトールを愛し、おうむのルルを愛して死んでいった『三つの物語』の「純な心」の女中フェリシテの相貌に酷似してくる。/
これでようやく、サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』を読む資格を得たような気がする。
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