『少年』は1950年頃に雑誌に連載されて以降、殆ど単独で刊行されたことがなく、全集以外では読むことができなかった。新潮文庫版が2022年に出て、初めて知ったという人が多いのではなかろうか。与えた衝撃も少なくなかったことと思う。
注目されたのはやはり同性愛的表現の部分で、KINDLE端末で読むと、例えば「お前の指を、手を、腕を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した。僕はお前を恋していた。お前も僕を恋していたと言ってよい。」というような濃密な表現が何か所あるが、必ずそういう箇所になると点線の傍線が付いて「10人がハイライト」という注が入っている。そうか川端もBLだったのかと見た向きが少なくなかったと思われる。
だが、私にも覚えがあるが、多かれ少なかれこうした傾向は思春期の一時期にえてして経験するもので、愛慾小説でない限りはあまり過大に捉われるべきものではない。そもそも小説なのだから、日記の形は取っていても事実をそのまま描いたとは限らない。まったくのフィクションかも知れない。
恐らく舞台設定は概ねそういうことで、清野少年も実名ではないにしてもモデルはいたことだろう。全体として、そうしたことは素材としては使われたとしても、それが主題のすべてではない。
清野や小泉という寄宿舎で同室の下級生たちとの交情、布団の中で腕を握ったりさすったりしたというのは事実だろう。この触れることへの特別の思いは気になるところだ。だが、どこまで行ってもそこから先に進まない。肝心なところは書いてないだけというのはあり得ないわけではないが、なかったと思われる。頬に触れたとか、一ヶ所だけ接吻したという表現はあるが、それだけだ。
主人公は中学を卒業して寄宿舎を出て、それから先は手紙のやり取りが続くが、手元に発見された日記、手紙類を整理したという話なので、手紙は清野の物ばかりで、主人公がどう書き送ったかはわからない。そこは巧妙に隠されている。清野の父親が大本教のリーダーで、清野は次第に宗教活動にのめり込んで行くのだが、主人公はそれを冷ややかに見ている。
大本教は高橋和巳が『邪宗門』のモデルとしており、そこでは純粋で国家権力に弾圧されて悲劇的な最期を遂げる美しい姿に描かれている。それに比べれば主人公の見方(川端の描き方)は戯画的で、悪意に満ちていると言っても良い。清野が深くのめり込むほどに主人公は冷めて行き、そこに二人の関係が終わりを告げつつあることが暗示されている。清野の最後の手紙はますます主人公を熱烈に求めるものとなって行くのだが。
その純粋さのはかなさこそがこの作品の本当の主題なのだろう。
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