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「これ(水俣病)は、白昼堂々と、大衆の面前で演ぜられている殺人事件ではないか。どこかに犯人がいるはずだ」 水俣病を扱った本書の作者、水上勉の言葉です。

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海の牙
水俣病が公式に確認されたのは 1956年(昭和31年)5月1日 です。今月はそこから70年ということで、1960年(昭和35年)に出版され、笹沢佐保の『人喰い』と共に日本探偵クラブ賞を受賞した本書を久しぶりに手に取りました。フィクションとはいえ、本書は水俣病を扱った、最初の本の一つだと思うからです。なお、国が原因を工場排水(チッソ水俣工場)による公害病と正式に認定するのは 1968年(昭和43年)9月26日 まで待たなければなりませんでした。

本書には、作者の水上勉(1919-2004)が、1972年(昭和47年)に再刊される際に書いた『「海の牙」について』と題する文章が収録されています。まず、それを紹介します。

「『海の牙』は、昭和34年(1959年)12月の『別冊文藝春秋』に発表した『不知火海沿岸』(120枚)に、約300枚書き足して『海の牙』と改題、昭和35年4月に河出書房から初版を刊行した作品で、本にする際に、雑誌発表部分をさらに書き換えたので、大半は書下ろしである。この作品は、作者が、当時流行の推理小説の形をとって、九州水俣に発生していた、公害病の被害者の置かれている立場を訴えてみたものである。昭和34年は、まだ、水俣病は、『水俣奇病』であったし、新日本窒素工業は、工場廃液が原因に非ずという確個たる姿勢をくずさなかったし、学者の中にも、風土病説、火薬爆発説などを唱える人もいたりして、奇病の原因究明は、研究の段階にあった。私などが化学知識のない者が、軽率に断定し得るところではなかった。しかし、私はあえて病気の原因は廃液である、という立場をとって、この小説を完結している」

作者が水俣病に興味を抱くようになったのは、NHKの番組によってです。それは次のようなものでした。

「アナウンサーは気の毒な瀕死の患者たちの顔をカメラでなめながら、この恐ろしい病気の原因は、いまだにわからず、工場の放出する廃液中にふくまれる水銀の影響だという説は、確定的とはいえない、といい、凡そ49人の死者の死者が出たのに、未だにその病因の究明されない点は不幸というべきで、患者たちは、工場廃液説をとって、日夜の陳情をつづけているが、工場は関知しないことだとつっぱねて、見舞金さえ出していず、また、政府もこれを手をこまねいて見ている」

作者は驚くと同時に、怒りを感じました。

「これは、白昼堂々と、大衆の面前で演ぜられている殺人事件ではないか。どこかに犯人がいるはずだ」

作者は、ただちに水俣へ向かい、半月滞在します。そして熊本日日新聞社の原田謙次郎さんの伝手で「病院で患者にも会い、家族にも会い、工場へ行って当事者にも会い、さらに熊本にもどって、県衛生部、熊本大学などを歴訪して、『奇病』発生で、顔を青くして奮闘しておられる学生さんや、お医者さんや、役人さんに会った」のです。

そして、結論を得ます。

「私は、これらの人びとにあって、水俣奇病が、工場の廃液以外に考えられないという結論に達した。それは、現地に行って、患者さんたちの話をきいたり、工場廃液の出ている『百間湾』の、恐ろしい土管の口をみた時に感じたことである。この土管の口をあけている湾に面した部落にだけ病人は発生し、土管の口をあけていない部落には、病人がいなかったからである。この土管が犯人でなければ、誰が犯人なのか」

水上勉は帰ってからすぐ、水俣病を扱った小説を書き始めます。ただし、舞台は、実際には水俣であることは見え見えなのですが、「水潟」という熊本県の架空の町という設定にしてあります。この命名について、作者はこう述べています。

「私は、日本の工場の中で、似たようなビニールの可塑剤をつくる工場を知っていた。それは新潟県阿賀野川の上流にある昭和電工だった。そこで、私は、『新潟』の『潟』と『水俣』の『水』をとって、水潟と名づけた」

そして、この昭和電工の工場は、新潟水俣病の原因となったのです。

「この小説を発表してから約8年後に、同じように『新潟県』に病気が発生しようとは、ユメ思わなかった」

以上が、この小説の創作背景です。今読んで思うのは、報道の力が強かった時代だったのだということと、名誉毀損で訴えられる危険を冒して出版された本だということです。そして、もちろん、素人である作者が半月調査しただけで、結論を出せるようなことに、いったいなぜ公害病と認定するまでこんなに時間がかかったのか、という怒りもあります。事実として、1959年(昭和34年)7月23日の熊本日日新聞に「水俣病の原因 有機水銀 尿や魚介から検出 熊(本)大研究班 全員一致で発表」という記事がでています。作者の結論には、こういう根拠もあったのです。

前置きが長くなりました。本書の内容を簡単に紹介します。なお、前述したように、水潟という架空の町が舞台なので、水俣病ではなく「奇病」と表現しますので、ご了承ください。


本書の探偵役は、木田民平という水潟で開業して11年目の町医者ですが、警察医という立場でもあります。ある日、彼は、東京から「奇病」の調査にやって来た結城宗市という保険医と出会い「奇病」について立ち話をします。ところが、それから10日後、碁仲間の勢良警部補から、結城宗市が行方不明だという問い合わせが、妻の郁子から出されていることを聞きます。宗市は水潟の近くの温泉に泊まっていたのですが、帰京予定日になっても帰ってこないと言うのです。旅館に問い合わせると、逗留してから6日目の夕刻に旅館を出たきり、荷物もそのままで帰っていませんでした。ただし、その日は出かける前に、クリーム色のジャンパーを着た中年男が訪ねて来て、30分ほど話し込んでいたとのことです。好奇心にかられた木田は、勢良と同行して、宗市が残した荷物を調べますが、「奇病」の調査記録が何も見当たらないことに気づきます。さらに、宗市を訪ねた男と風貌が似ている中年男が、若い男が近くの別の温泉に逗留していたことが分かります。奇妙なことに、彼らも「奇病」の調査が目的だと旅館には話し、かつ秘密の調査だから、口外しないように頼んでいたとのことでした。しかも、彼らも行方不明になっていたのです。また、宗市がつけていた「奇病」調査記録ノートは、後に発見されるのですが、後ろ方の数ページが破かれていました。


ただ、本書全体の印象とすると、ミステリーではありますが、正直なところ、設定も謎解きもあまり出来がいいとは思えません。それよりも水俣病の実態の凄惨な描写の方が後に残りますし、それが本書のレゾンデートルです。宗市の「奇病」調査記録ノートには、病院で記録された病例が書かれていますが、これはそのまま作者が水俣で病院から写し取った内容ではないかと思われます。28歳の女性の例を挙げます。

「7月13日から両手2、3、4指にしびれ感を自覚し、15日には口唇がしびれ、耳が遠くなった。18日には草履がうまくはけず、歩行が失調性となった。またその頃から言語障碍が現れ、手指震顫(しんせん)、不随意運動が認められた。8月に入ると歩行困難がおこり、7日水潟市立病院にきたが、翌日より震顫様運動が激しく、ときどき犬吠(けんはい)様の叫声を発して全くの狂躁状態となった。睡眠薬を投与すると、就眠するようではあるが、四肢の不随意運動は停止しない。上記の症状が26日頃までつづいた。食物を摂取しないために、全身の衰弱が著明となり、不随意運動はかえって幾分緩徐となって同月31日入院した。なお、発病以来発熱は見られなかったが、26日より38度台の熱がつづいている。
入院時の所見は、骨格は小にして栄養甚だしく衰え、意識は全く消失していた。顔貌は老人様。約1分間の間隔をもって、顔面を苦悶状に硬直させ、口を大きく開いて犬叫様の叫声を発するが言葉とはならない。その際同時に四肢の震顫様運動を伴い、躯幹を硬直させ後弓反張が認められた。体温38.9度C、脈拍数は105で頻にして小、緊張は不良、瞳孔は縮小し対光反応は遅鈍。結膜に貧血、黄疸なく目瞼下垂も認められない。肺に理学的所見を認めない。腹部はいちじるしく陥没し、腹部の緊張が強い。神経症状としては二頭筋反射、三頭筋反射、アキレス腱反射ともに減弱しているが、腹壁反射は正常で病的反射は認められなかった。指鼻試験は検査不能、眼底所見異常なし。視野は検査不能。
入院経過は、翌日から鼻腔栄養を開始。31日は入院当日と同様の不随意運動をつづけていたが、9月1日になると運動がしずまり筋緊張はかえって減弱し、四肢にふれても反応を示さなくなった。体温39.1度C、脈拍数122、呼吸数33、一般状態は悪化した。翌2日午前2時頃再び不随意運動が始まり、やがて狂躁状態となって叫声を発し、震顫様運動を反復するにいたった。フェノバルビタール(主にてんかん発作に用いられる抗けいれん剤)の注射により午前10時頃不随意運動しずまり睡眠に入った。午後4時に脈拍数120、頻にして小、緊張は微弱、血圧90/62mmHgとなり、四肢の筋緊張は現弱。午後10時に呼吸数56、脈拍数120、血圧70/60mmHgとなり、翌3日午前3時35分死亡した」

これを読んだ宗市は、こう書きます。

「臨床的には、拱手傍観にみえる。これでは、まるで動物を殺すように眺めているだけの処置なり」

作者は水俣病を「大衆の面前で演ぜられている殺人事件」と呼びましたが、これを読むと「大衆の面前で演ぜられる長期の拷問による殺人事件」と呼んだ方が正しいように思えてきます。しかし、この文は医師の記録がベースです。フィクションという手段が使える作者は、ある患者の発作を次のように描写してみせました。

「治作は、その日、いつもと変りなく日向の縁に出ていた。正午すぎ、突如、しぼるような声を出し、縁から這いずりながら筵(むしろ)の敷いてあるお間に入った。(中略)
家の中でドスンという激しい音がした。(妻の)かねが縁側に走った。治作は筵の上で宙がえりしていた。鉢頭が板の間にぶつかり、大きな音をたてた。うう、という呻きを発し、厚い唇から垂れ流れる涎がいつもより多い。顔面はひきつり、蒼白な顔、黒い血管が額の皮膚をふきあげるように筋走っていた。
かねが叫んだ。治作はうるんだ瞳孔を空に向けている。そして、手と足がプロペラのように廻転した。次に、はげしいふるえがきた。強烈な発作だった。(中略)
お間いっぱいに血しぶきが散っていた。駆け上がってかばおうとするかねをはね飛ばした治作の体が、突然1メートルほど上にはね上がったのである。すすけた天井で、治作の鉢頭が割れるような音をたてた瞬間、治作はどっと落下した。(中略)
5分ほどして、力が抜けたようにその掌がひらいた。治作は白目をむいたまま寝転がっている。と、ふたたび畳の上を転がりだした。そして、膝と爪先にはげしい痙攣がおこった。それが、治作が生きている証だった」

この描写も、作者が想像力だけで書いたものとは思えません。おそらく、患者の発作を直接見た者からの聞き取りがベースでしょう。この病気の恐ろしさは、現在ではあまりきちんと伝えられていないような気がするので、あえて長文の引用をしました。


本書はフィクションではあるものの、現実に起こったことをベースにしているのは、間違いありません。作者は、なぜ水俣病の原因特定にこれほど時間がかかったのか、なぜ県も市も原因究明に熱心でなく、熊本大学の研究者たちにも少額の調査費しか与えられず、研究者たちが自腹を切って調査をせざるをえなかったかについても、はっきりと意見を述べています。作中で、木田は勢良にこう発言します。

「知事が水潟奇病患者を見舞に行ったという話はきいたことがない。4年もたつのになあ...地元市長にまかすといったって、水潟市会は君も知ってるとおり、東洋化成(チッソ)の元労組委員が過半数を占めているんだぜ。現在、化成工場とは関係を断ってるといったって、ここまでくる票数は誰がかせいだと思う、化成の人口が2万5千だ。この票をもらって議員をつとめている連中だよ。おいそれと漁民の申し入れを無条件にきくと思うか」

一方で、木田は自問自答します。

「2万5千人の社員、この水潟市の巨大な経済を支えている工場、簡単に閉鎖するわけにはいかない。工場がつぶれたら、この市は途端にうら淋しい漁村に立ちもどることだろう。いや、それよりも、もっとみじめな村になることだろう、死んだ海をかかえた廃村として」

こういう描写から、原発建設を行い、それに経済を依存するようになった町村を連想するのは、私だけではないでしょう。ひとたび、そういう物が問題を起こした場合、どういう事態になるかというのは、福島第一原発よりはるか以前に水俣で日本は経験していたことを、本書は、今さらながら思い出させるのです。山村正夫が書いた本書解説には、作者がTVで発言した内容が紹介されています。

「人間というものは、年を取って50、60過ぎになると、ウラミツラミを抱き合う人間同士でさえも、一緒に墓参りをしたり、あの時はどうも失礼なことをして、などと笑って流せるものらしいが、僕はそうなりたくない。ひとたび抱いた憎悪や怒りは、どんなに年を取っても燃やしつづけるのが、芸術家ではないかと思います」

この発言には異論のある方もあるでしょうが、広島・長崎同様、水俣も長く語り続けなければならない歴史であることは間違いありません。しかも、これは戦争ではない時代に、日本の社会体制が自ら引き起こし、解決まで必要以上に時間がかかった事件なのです。水俣病公式確認70周年のマスコミの扱いの小ささを目の当たりにすると、もっと広く知られ、語られてしかるべき出来事だとあらためて思います。

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  • 掲載日:2026/05/26
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