黒地に白ぬき文字で、ストライキに参加した労働者たちと警官隊との衝突シーンのページが通奏低音のように挟みこまれている。
その陰惨な描写から、なぜか眼をそらすことができない。/
【暴徒鎮圧隊の二つのチームが林から出てくる。(略)そしておれたちをペンチではさむような具合にはさみ撃ちにする─警棒が盾をバンバン叩く。犬どもがくそみたいに吠えまくる─怖い。むちゃくちゃ怖い─どこにも行き場がない。(略)やつらはもう逮捕なんかしない。襲撃してめった打ちにぶちのめすだけだ(略)。おれの後ろの男が倒れる。どーんと倒れる─透明合成樹脂の盾が男のうなじを直撃する。頭のてっぺんに警棒が打ちつけられる。頭蓋骨の割れる音が聞こえる─】(本書。以下同じ。)/
【とうとう最終戦争が双方から宣言されたみたいな感じだ─もうどちらも捕虜にとったりせず徹底的に殺しあおうってわけだ。おれらが死ぬか、やつらが死ぬか─双方の人間はもうただの数にすぎない。血の詰まった肉にすぎない。砲弾の標的にすぎない。(略)本当に心臓を引き裂かれる─踏みにじられ、警棒で叩かれる。噛まれ、殴られる。煉瓦や石をぶつけられる─踏みにじられ、警棒で叩かれ、噛まれ、殴られ、煉瓦や石をぶつけられるおまえの心臓。】/
もちろん、暴力を行使するのは、何も政府側だけに限ったことではない。/
【昨日の明け方、フードで顔を隠したピケ隊員たちが野球のバットで武装し、一人の就労炭鉱労働者を自宅で襲撃してぶちのめしたのだ。その労働者がフライストン炭鉱でまた働きだしたのはつい四日前のことだった。職場に復帰したのは小さな子供が二人いるからだった。それと身重の妻がいるからだった。それと借金があるからだった。(略)家の外で二十人のピケ隊員が彼を待っていた。ピケ隊員たちは仕事に行くなと彼に警告した。ピケ隊員たちは身重の妻と二人の子供に危害を加えると脅した。彼は警察に電話をするため家に戻ろうとした。(略)家に駆けこんだ。(略)ピケ隊員たちは玄関を入ってすぐの居間で男をつかまえた。ピケ隊員たちは男をバットで殴り安全靴で蹴りはじめた。寝室の衣装箪笥に隠れた妻と子供たちの耳に、夫であり父親である男の悲鳴が一階から届いてきた。ピケ隊員たちは男の足首の骨を折った。肩の骨を折った。(略)肋骨を二本折り、残りの肋骨に打撲傷を与えた。(略)鼻の骨を折った。】/
この物語が孕んでいる異様な緊迫感は、北アイルランド紛争に関する作品群を思い出させずにはおかない。
上巻の感想で、高村薫『リヴィエラを撃て』をあげたが、この小説を読んで北アイランド紛争を描いた映画を片っ端から観た。
サディアス・オサリヴァン『ナッシング・パーソナル』(1995年)、ニール・ジョーダン『マイケル・コリンズ』(1996年)、ケン・ローチ『麦の穂をゆらす風』(2006年)などの映画だ。/
僕の感覚では、本書で描かれている暴力は、労働組合と警察の間のせめぎ合いというよりも、それらの映画が描いていた内戦状態にきわめて近い。
本書中に、1984年10月に起きたサッチャー首相を狙ったIRAによるホテル爆破テロが描かれているが、スト参加労働者たちと警察との双方が行使する暴力の苛烈さは、テロ事件の暴力と地続きでつながっている。/
北アイルランド紛争は、1960年代後半に始まり、1997年から2007年の間に終了したと考えられているので、1984年はまさに紛争の真っ只中である。
サッチャー首相は、IRAなど武装グループとのいかなる話し合いをも拒否し、警察力を前面に対決姿勢を打ち出した。
サッチャーの強圧的な姿勢は、労働運動に対しても容赦なく貫徹された。/
そこで気になってくるのが、そのサッチャーをロールモデルとして挙げ、彼女の政治的信条から強い影響を受けており、「鉄の女」サッチャーにあやかって、「日本の鉄の女」と呼ばれている高市首相である。
好きが昂じて、〈いかなる話し合いをも拒否した〉り、サッチャリズムの暴力的な側面をまねしたりしなければいいのだが。/
【〈大地〉はおまえを狩り、おまえは逃げる。おまえは逃げ、おまえは隠れる。最後の場所に隠れる─】/
僕は、逃げる。
だが、足がもつれ、転んでしまう。
鉄パイプを持った男たちが僕をとりかこむ…
またしても、いやな夢。/
◯参考文献:
岩崎新哉「サッチャーの政策」(立命館大学)
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