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三太郎さん
三太郎
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馬鹿げた戦争だと皆が思っていても、軍事大国が始めた戦争は容易には終わらせることができない。ベトナム戦争の教訓をプーチンも学ぶべきだ。
開高健が芥川賞の受賞作家だとは知らなかった。開高といえばベトナム戦争のルポルタージュを書いた人だと思い出す。僕は高校生の頃この本を一度読んだ覚えがある。

このベトナム戦記は1964年から65年にかけて、南ベトナムの最前線を南ベトナム兵士とともに行動した記録だ。64年というと僕はまだ小学校に入学したばかりで、最初の東京オリンピックが終わった頃だった。いつ始まったのかも定かに言い難い内戦のような戦争は、この頃から米軍および南ベトナム政府と北ベトナムとの戦争になって行く。開高は米軍がいわゆる北爆を開始する直前にベトナムをでている。

ところで最近ウクライナで行われたロシア軍による住民の虐殺などの話を聞くと、僕などはベトナム戦争でのソンミ村での米兵による住民虐殺事件を連想してしまう。訳の分からない戦争だという点でも両者は似ていないか。ベトナム戦争がサイゴン陥落で終わるのが1975年のことで、僕はもう18歳になっていた。僕の少年時代はベトナムではずっと戦争が続いていたのだから、軍事強国が始めた戦争はなかなか終わりにできないことが判る。

開高が見た戦争は米軍兵士と北ベトナム兵士が戦っていた訳ではない。南ベトナム内で農民らを組織した民族解放戦線(ベトコン)vs.南ベトナム軍+米軍の戦いだ。そして南ベトナム政府はもともと米国の傀儡政権だから、国民の大多数を占める農民の支持は得られていない。しかし一方、南ベトナムには経済を握っている裕福な華人たちがいて、彼らは南ベトナムが民族解放戦線のものになるのを望んではいない。しかしいざとなったら旧宗主国のフランスか米国へ国外脱出する用意は怠りない。そういった階層がいることも開高は見てきている。

北ベトナムとの国境に近い古都フエの街に滞在していると、155mmりゅう弾砲の炸裂音が絶え間なく響き、時々地雷が爆発する音がする。そんな夜のあくる朝に車で幹線道路を走っていると、道端に農民風の若者の死体が転がっていたが、誰も驚きもしない。子供たちも死体に慣れっこになっている。道路の周辺の村は信じられないほど貧しく、女性と老人と子供しかいない。青年や壮年の男子は兵隊にとられてしまっている。

当時の南ベトナムでは若者も女性も老人も政府に抗議するデモを行う。そして軍隊は容赦なくデモ隊に催涙弾を打ち込む。

開高が見る所では、南ベトナムには政府とベトコンと、もう一つ仏教寺院という第三の政治勢力があった。寺院は反政府(反軍事政権)でかつ反共産主義(反ベトコン)だが、非暴力主義を標榜していてデモはしない。僧侶は抗議のためのハンガーストライキを行うか、焼身自殺する。実際には若い僧侶たちのデモを開高は目撃するのだが、政府はデモの参加者はベトコンが雇った偽物だと主張した。

開高がサイゴン滞在中に、実際に寺院の高僧たちのハンガーストライキーが起こり、軍のクーデターにより首相が追放される事件があった。

南ベトナム軍には僧侶が同行する。親しくなった高僧に、仏教徒である兵隊に銃を捨てるよう説得すれば戦争が終わるのではというと、ある僧侶はなるほどといい、別の僧侶はそれも考えているがまだ時期ではないといった。

著者は「山の人」が集団で移住させられた村を見に行った。山の人は東南アジアの先住民族で狩猟採集民であったが、政策により平地に移住して農業をさせられている。毒のついた弓矢の使い手で、ベトコン相手のゲリラ戦が得意だが、ベトコン側につく山の人も多い。平地に移住させられたのは彼らがベトコン側につくのを政府が恐れたからだ。

当時、山の中で日本の企業がダムの建設工事をしていた。送電線がベトコンに切られるので、ベトコンに申し入れたら以後は切られなくなったという。あるベトコンは、日本人は敵ではない、送電線はいずれ自分たちがいただくといったとか。

開高はダムからの帰り道に枯れて赤茶けた森を通った。枯葉剤が散布されたのだ。森に隠れたベトコンを発見し易くするためだ。著者はジャングルを枯らしてしまったらベトナム人はみな反米になるし、そんなことをしてもベトコンはいなくならないと思う。

開高は、ベトコンに捕まって後に解放された日本人に会いに行った。その人は沖縄出身で第二次大戦中に日本軍としてベトナムに来たが、戦後は帰国せずにホーチミンの軍隊(ベトミン)に入って独立のためにフランスと戦った。停戦協定後、彼は南ベトナムに残った。共産主義が嫌いなのと既にベトナム人の妻子がいたからだ。ある日ベトコンに拉致されて山の中に連れていかれたが、出てきたベトコンの偉い人は昔自分が鍛えたベトミン時代の部下だった。彼のような元日本兵は何人もいたという。

旧正月の直前に、サイゴンの市場の前でベトコンの少年が銃殺されるのを見た。人が殺されるのを傍観しているだけだった開高は見た後で吐き気を覚える。そして米軍に頼んで前線のキャンプに同行する。そこはジャングルの中で最も危険な地域に隣接した場所だった。

ある日、開高は米軍大佐から明日、ジャングルの奥にあるベトコンの基地を攻撃すると告げられた。南ベトナム兵が主体の三大隊で一斉に攻撃すると。米軍の士官が大隊ごとに三名入っている。これに開高とカメラマンが同行することになった。しかし結局、彼らはベトコンの罠にはまってしまい、周囲を囲まれてベトコンの射撃をうけることに。空からは米軍の攻撃ヘリが援護するが、玉を打ち尽くすと補給のために基地に帰る。するとまたベトコンの射撃にさらされる。必死に走って隊は囲みからやっと脱出できた。

従軍中に開高は米軍や政府軍の将校と親しくなり、彼らの本音を聞き出した。当時すでに米軍の大佐も、この戦争に意味があるとは思えなくなっていたのだが、驚くべきことには戦争はそれから10年以上続いたのである。


1975年にサイゴンが陥落してからもう半世紀近くになりました。最近知ったのですがベトナムはコーヒー豆の生産高でブラジルについで世界第二位になっていました。コーヒーさび病に強いロブスター種なので、加工用のコーヒー豆に使われているのでしょうが、僕らも意識しないまま毎日飲んでいるのかもしれませんね。

ところで、著者は当時現地でよくフランス製ビールの「33」を飲んでいますが、これは今も「333」として売られています。ピルスナータイプの爽やかなビールで日本人好みでしょう。僕は汐留にあるベトナム料理店で何回かベトナムのビールを飲みましたが、333以外にもいろいろあってどれも美味しいのは意外な発見でした。
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三太郎
三太郎 さん本が好き!1級(書評数:827 件)

1957年、仙台に生まれ、結婚後10年間世田谷に住み、その後20余年横浜に住み、現在は仙台在住。本を読んで、思ったことあれこれを書いていきます。

長年、化学メーカーの研究者でした。2019年から滋賀県で大学の教員になりましたが、2023年3月に退職し、10月からは故郷の仙台に戻りました。プロフィールの写真は還暦前に米国ピッツバーグの岡の上で撮ったものです。

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