マーブルさん
レビュアー:
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読みやすい。しかし抱合する世界は広大だ。えてしてこのような場合、読んだだけで賢くなったような気がしてしまうがそれは錯覚だ。過去の財産を鵜呑みにするばかりでなく、不器用でも自ら考えることが大切だ。
大人版の『ソフィーの世界』のような印象も抱く。だが、あちらが哲学の歴史をほぼ網羅していることに比べると、より筆者による選択が行われているごく一部の哲学。そしてそこから生まれる思索。
ウィトゲンシュタイン
サルトル
ニーチェ/ソクラテス
カーソン
サン=テグジュペリ
ファイヤアーベント
廣松渉
フッサール
ハイデガー/小林秀雄
大森荘蔵
これら10章。哲学についての本を執筆中の作家が、シュレディンガーの猫と共に展開する哲学的考察。
第1章 ウィトゲンシュタイン
哲学は科学とは違う。一般化を求めるものではない。
物事の、あるいは世界の真理・理(ことわり)を求めるのが哲学のように思える場合もあるが、目の前の事象をありのままに深く考え、突き詰めていけば、それは個別で、具体的になっていく。一般化を求める衝動は、書かれているように科学の弊害のひとつなのか。人間の持って生まれた欲望なのか。
しかし、ひとりひとりの苦悩や疑問は、実はとても個人的なものであることを考えると、一般化など不要なことと思えてくる。
そして、それは肩の力を抜いてくれるのも事実。
では、没我の境地による悟りとは如何に。
第2章 サルトル
自分は何者で、どこから来て、どこへ行くのか。
思い悩み、自分という存在を常に意識せざるを得ない存在。実存。
選びもしないのにこの世に放り出され、未練を残しつつ迎える死には抗えない。その短き生の間、どのように過ごすのか。過ごせるのか。
過去を悔やまず、未来の自分に向かって行動を起こせるか。他人任せにせず、他人のせいにせず。過去に不満があってもそれは変えられない。
芥川の河童であれば自ら選ぶことができる「生まれるかどうか」の判断は、我々人間には許されない。選択の余地なく生まれ落ち、有無を言わせず生の舞台から降ろされる。
『ブレードランナー2049』の主人公の苦悩はまさしく実存的苦悩と言える。人間ではないレプリカント(人造人間)でありながらそれは、人間の苦悩の写し絵である。
親もなく、過去もなく、人類に奉仕するためだけに造られ、尊厳も判断の自由も与えられず過酷な仕事に携わる。唯一の癒しは仮想現実の女性。作中もっとも人間的に見えるのが彼女である皮肉。
その主人公が自己を意識し、感情が揺らぎ、他でもない唯一の存在であることに期待する。
与えられた人生に満足できなくなり、実存を探し求める。
章立てを見れば分かる通り、本書にはすぐに解る一貫性というものはない。カーソンやサン=テグジュペリと言った馴染みのある世界もあれば、初めて聞く名もある。
また章の中で語られるのは表題の哲学者だけでなくコリン・ウイルソンと言った気になる存在も含まれる。学問的バックグラウンドが科学哲学と物理学という著者ゆえ、科学についての話題が取り上げられる部分が多いが、主旋律は科学と哲学の橋渡しであり、文系と理系の間に横たわる溝を埋めることだ。
科学が文明に寄与してきた様々な恩恵と裏腹に失ってきた感性。文系/理系、東洋/西洋といった思考の垣根を越えようと試みた小林、賢治、サン=テグジュペリ。生き霊や死霊を見る感覚を失った人々にいま一度突きつけられるウイルソンの『オカルト』。
哲学とは「知を愛する」ことであり、その知にはバランスが必要だ。
こういった本を読んで陥りがちなのが、読んだだけで満足し、賢くなった気分になること。しかし、哲学するとは哲学の歴史を学ぶことではなく、哲学者の思想を理解することでもなく、自分自身の答えを見つけることであると思えば、本書はほんの入り口に過ぎない。
楽しく、愉快な入り口ではある。が、油断は禁物だ。
【読了日2021年12月16日】
ウィトゲンシュタイン
サルトル
ニーチェ/ソクラテス
カーソン
サン=テグジュペリ
ファイヤアーベント
廣松渉
フッサール
ハイデガー/小林秀雄
大森荘蔵
これら10章。哲学についての本を執筆中の作家が、シュレディンガーの猫と共に展開する哲学的考察。
第1章 ウィトゲンシュタイン
哲学は科学とは違う。一般化を求めるものではない。
物事の、あるいは世界の真理・理(ことわり)を求めるのが哲学のように思える場合もあるが、目の前の事象をありのままに深く考え、突き詰めていけば、それは個別で、具体的になっていく。一般化を求める衝動は、書かれているように科学の弊害のひとつなのか。人間の持って生まれた欲望なのか。
しかし、ひとりひとりの苦悩や疑問は、実はとても個人的なものであることを考えると、一般化など不要なことと思えてくる。
そして、それは肩の力を抜いてくれるのも事実。
では、没我の境地による悟りとは如何に。
第2章 サルトル
自分は何者で、どこから来て、どこへ行くのか。
思い悩み、自分という存在を常に意識せざるを得ない存在。実存。
選びもしないのにこの世に放り出され、未練を残しつつ迎える死には抗えない。その短き生の間、どのように過ごすのか。過ごせるのか。
過去を悔やまず、未来の自分に向かって行動を起こせるか。他人任せにせず、他人のせいにせず。過去に不満があってもそれは変えられない。
芥川の河童であれば自ら選ぶことができる「生まれるかどうか」の判断は、我々人間には許されない。選択の余地なく生まれ落ち、有無を言わせず生の舞台から降ろされる。
『ブレードランナー2049』の主人公の苦悩はまさしく実存的苦悩と言える。人間ではないレプリカント(人造人間)でありながらそれは、人間の苦悩の写し絵である。
親もなく、過去もなく、人類に奉仕するためだけに造られ、尊厳も判断の自由も与えられず過酷な仕事に携わる。唯一の癒しは仮想現実の女性。作中もっとも人間的に見えるのが彼女である皮肉。
その主人公が自己を意識し、感情が揺らぎ、他でもない唯一の存在であることに期待する。
与えられた人生に満足できなくなり、実存を探し求める。
章立てを見れば分かる通り、本書にはすぐに解る一貫性というものはない。カーソンやサン=テグジュペリと言った馴染みのある世界もあれば、初めて聞く名もある。
また章の中で語られるのは表題の哲学者だけでなくコリン・ウイルソンと言った気になる存在も含まれる。学問的バックグラウンドが科学哲学と物理学という著者ゆえ、科学についての話題が取り上げられる部分が多いが、主旋律は科学と哲学の橋渡しであり、文系と理系の間に横たわる溝を埋めることだ。
科学が文明に寄与してきた様々な恩恵と裏腹に失ってきた感性。文系/理系、東洋/西洋といった思考の垣根を越えようと試みた小林、賢治、サン=テグジュペリ。生き霊や死霊を見る感覚を失った人々にいま一度突きつけられるウイルソンの『オカルト』。
哲学とは「知を愛する」ことであり、その知にはバランスが必要だ。
こういった本を読んで陥りがちなのが、読んだだけで満足し、賢くなった気分になること。しかし、哲学するとは哲学の歴史を学ぶことではなく、哲学者の思想を理解することでもなく、自分自身の答えを見つけることであると思えば、本書はほんの入り口に過ぎない。
楽しく、愉快な入り口ではある。が、油断は禁物だ。
【読了日2021年12月16日】
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文学作品、ミステリ、SF、時代小説とあまりジャンルにこだわらずに読んでいますが、最近のものより古い作品を選びがちです。
2019年以降、小説の比率が下がって、半分ぐらいは学術的な本を読むようになりました。哲学、心理学、文化人類学、民俗学、生物学、科学、数学、歴史等々こちらもジャンルを絞りきれません。おまけに読む速度も落ちる一方です。
2022年献本以外、評価の星をつけるのをやめることにしました。自身いくつをつけるか迷うことも多く、また評価基準は人それぞれ、良さは書評の内容でご判断いただければと思います。
プロフィール画像は自作の切り絵です。不定期に替えていきます。飽きっぽくてすみません。
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- 出版社:中央公論新社
- ページ数:334
- ISBN:9784122050761
- 発売日:2008年11月01日
- 価格:800円
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