ゆうちゃんさん
レビュアー:
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娼婦を職業としながら純真な一面を持つ椿姫ことマルグリット、アルフレートと言う金持ちの息子が彼女に一目惚れし、ふたりで暮らしてゆこうと決心した。「マノン・レスコー」を意識した悲恋の物語
ヴェルディの歌劇「椿姫」の原作。著者のデュマ・フィスのフィスは息子と言う意味で「モンテクリスト伯」や「三銃士」で有名なアレクサンドル・デュマの息子である。
主人公はパリで有名とされる娼婦マルグリット・ゴーチエ。彼女には、亡くなった娘にそっくりだと言って金銭的な援助を惜しまない老公爵がいて、彼女を諭すのだが、彼女にはその効き目もなくパリでは派手な生活を送っていた。老公爵は彼女の肺病を心配する。
アルマンと言う青年が彼女に一目惚れする。語り手の「私」がマルグリットやそのアルマンのことを知るのに相当な頁を費やすのだが、全体の三分の一が経過するくらいからやっとマルグリットとアルマンの物語が始まる。マルグリットはアルマンの一途で真剣な恋に応じてこれまでの享楽的な生活を捨て田舎に引っ込んで半年ほど暮らす。マルグリットがこれまで作った借金をマルグリットは自分で清算したいと言うのだが、アルマンは、それでは男の沽券にかかわると言う。だが、結局は今後の生活費はアルマンの収入を当てにし、借金の清算は、マルグリットに貢がれた沢山の宝飾品や家具を売り払って充てることにした。ふたりでそう決心し、新しい住居としてパリの閑静な住宅地に慎ましい家を見つけて楽しい将来の計画を立てていたところにアルマンの父親が現れる。
アベ・プレヴォの「マノン・レスコー」をとても意識した小説である。そもそも「私」がアルマンと知り合ったのもマルグリットの死後、骨董が趣味の「私」が彼女の財産の競売に出向き、気まぐれに競り落とした「マノン・レスコー」の本をきっかけにしている。それはアルマンがマルグリットに贈った本で、旅から帰って来たアルマンは、誰が競り落としたかを調べ、「私」を訪ねてきてアルマンから経緯を聞くことになった。因みに、マルグリットとアルマンの「マノン・レスコー」のやり取りなど知らない筈のアルマンの父親まで小説の後の方で「マノン・レスコー」に言及している。
本書は「マノン・レスコー」と似て非なる物語となっている。共通点を挙げると、①どちらも「私」が恋愛の男の当事者(マノンならデ・グリュー、椿姫ならアルマン)から話を聞いて書籍にまとめた形を取っている、②恋愛する男性は一途で純真、どちらも母親を早くに亡くしている、③それぞれ性格は異なるが父親の介入がある。あといくつか共通点はあるが、ネタバレになるので止めておく。一方で、「椿姫」が「マノン・レスコー」の単なる焼き直しかというとそうではない。大きな相違点は④マノンは教訓的な話であるのに対して椿姫は徹底的にロマンティックな悲恋を描いている、⑤それに応じて享楽的なマノンと実は一途で真面目な面を見せるマルグリットと言う女主人公の性格の違いがある、⑥椿姫の筋はよく知られているのではあるが、何も知らない読者を仮定すると物語の最後の四分の一くらいでアルマンに対するマルグリットの態度の急激な変化が大きな謎として浮かび上がってくる筋立てになっている、などである。これらの相違は大きい。結局、デュマ・フィスが、アベ・プレヴォの用意した皿に全く異なる料理を盛りつけたような感じを受ける。
それにしても相違点の⑥は読んでいて苦しい。読者が女主人公に大いに思い入れをするように描かれている。そう思って読むとアルマンとマルグリットの恋愛が始まるまでの長い助走にもそれなりの意義があるように思う。一途な男性と言うものは気が利かないし融通も利かず、結局人生をダメにしてしまうものだ(おっと、椿姫にも教訓が出てきてしまった)。
本書は著者20歳の処女作とのこと。確かに文章にみずみずしさを感じるが、20歳でこんな小説を書けるとは。本作に限らずフランスには若い人が書いた恋愛小説の傑作が多い。やはり恋愛についてはとても進んだ国なのだろう。好評な本書はヴェルディが歌劇にしたが、5幕の演劇用の戯曲にもされ、サラ・ベルナールも演じたとのこと。マルグリット・ゴーチエにはモデルが居てデュマ・フィスの愛人だったともあった。
椿姫の有名なアリア
乾杯の歌(ヴィオレッタとアルフレート(人物名が小説から変わっている))
そはかの人か~花から花へ(ヴィオレッタ+アルフレート)
*花から花へは4分半くらいから
主人公はパリで有名とされる娼婦マルグリット・ゴーチエ。彼女には、亡くなった娘にそっくりだと言って金銭的な援助を惜しまない老公爵がいて、彼女を諭すのだが、彼女にはその効き目もなくパリでは派手な生活を送っていた。老公爵は彼女の肺病を心配する。
アルマンと言う青年が彼女に一目惚れする。語り手の「私」がマルグリットやそのアルマンのことを知るのに相当な頁を費やすのだが、全体の三分の一が経過するくらいからやっとマルグリットとアルマンの物語が始まる。マルグリットはアルマンの一途で真剣な恋に応じてこれまでの享楽的な生活を捨て田舎に引っ込んで半年ほど暮らす。マルグリットがこれまで作った借金をマルグリットは自分で清算したいと言うのだが、アルマンは、それでは男の沽券にかかわると言う。だが、結局は今後の生活費はアルマンの収入を当てにし、借金の清算は、マルグリットに貢がれた沢山の宝飾品や家具を売り払って充てることにした。ふたりでそう決心し、新しい住居としてパリの閑静な住宅地に慎ましい家を見つけて楽しい将来の計画を立てていたところにアルマンの父親が現れる。
アベ・プレヴォの「マノン・レスコー」をとても意識した小説である。そもそも「私」がアルマンと知り合ったのもマルグリットの死後、骨董が趣味の「私」が彼女の財産の競売に出向き、気まぐれに競り落とした「マノン・レスコー」の本をきっかけにしている。それはアルマンがマルグリットに贈った本で、旅から帰って来たアルマンは、誰が競り落としたかを調べ、「私」を訪ねてきてアルマンから経緯を聞くことになった。因みに、マルグリットとアルマンの「マノン・レスコー」のやり取りなど知らない筈のアルマンの父親まで小説の後の方で「マノン・レスコー」に言及している。
本書は「マノン・レスコー」と似て非なる物語となっている。共通点を挙げると、①どちらも「私」が恋愛の男の当事者(マノンならデ・グリュー、椿姫ならアルマン)から話を聞いて書籍にまとめた形を取っている、②恋愛する男性は一途で純真、どちらも母親を早くに亡くしている、③それぞれ性格は異なるが父親の介入がある。あといくつか共通点はあるが、ネタバレになるので止めておく。一方で、「椿姫」が「マノン・レスコー」の単なる焼き直しかというとそうではない。大きな相違点は④マノンは教訓的な話であるのに対して椿姫は徹底的にロマンティックな悲恋を描いている、⑤それに応じて享楽的なマノンと実は一途で真面目な面を見せるマルグリットと言う女主人公の性格の違いがある、⑥椿姫の筋はよく知られているのではあるが、何も知らない読者を仮定すると物語の最後の四分の一くらいでアルマンに対するマルグリットの態度の急激な変化が大きな謎として浮かび上がってくる筋立てになっている、などである。これらの相違は大きい。結局、デュマ・フィスが、アベ・プレヴォの用意した皿に全く異なる料理を盛りつけたような感じを受ける。
それにしても相違点の⑥は読んでいて苦しい。読者が女主人公に大いに思い入れをするように描かれている。そう思って読むとアルマンとマルグリットの恋愛が始まるまでの長い助走にもそれなりの意義があるように思う。一途な男性と言うものは気が利かないし融通も利かず、結局人生をダメにしてしまうものだ(おっと、椿姫にも教訓が出てきてしまった)。
本書は著者20歳の処女作とのこと。確かに文章にみずみずしさを感じるが、20歳でこんな小説を書けるとは。本作に限らずフランスには若い人が書いた恋愛小説の傑作が多い。やはり恋愛についてはとても進んだ国なのだろう。好評な本書はヴェルディが歌劇にしたが、5幕の演劇用の戯曲にもされ、サラ・ベルナールも演じたとのこと。マルグリット・ゴーチエにはモデルが居てデュマ・フィスの愛人だったともあった。
椿姫の有名なアリア
乾杯の歌(ヴィオレッタとアルフレート(人物名が小説から変わっている))
そはかの人か~花から花へ(ヴィオレッタ+アルフレート)
*花から花へは4分半くらいから
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神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。
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- 出版社:岩波書店
- ページ数:329
- ISBN:9784003254011
- 発売日:1971年01月01日
- 価格:588円
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