自分にはあまりなじみのない作家だが本書で取り上げられる「マダム・エドワルダ」と「目玉の話」は、バタイユの代表作だそうだ。
「マダム・エドワルダ」は現在時制で語られる話で、「私」が「鏡の間」という娼館に行きそこの有名な娼婦「マダム・エドワルダ」と抱き合い、そのままふたりで外出し、サン=ドニ門の付近でもまた抱き合う。そしてタクシーに乗り、今度はタクシーの運転手も巻き込んで・・・。
「目玉の話」は、一層奇怪な話である。「私」が思春期に別荘地で出会った従妹のシモーヌとふたりの共通の友人マルセルという女性との性倒錯、放尿譚である。シモーヌと「私」はすぐ意気投合する。ふたりの関係は清らかだが、お互い裸になり性器を見せ合うし放尿もする。シモーヌはその「遊び」で玉子を使うのが好きだった。外でそういうふたりの行為に行き遭ったのがマルセルで、彼女は友人の中でも一番純真だった。だが「私」とシモーヌは、彼女を否応なくふたりの関係に巻き込む。マルセルは、「私」とシモーヌと何人かの友人で行った乱痴気パーティが親たちに見つかった後、精神病院に入れられてしまう。シモーヌと「私」はマルセルをその精神病院から助け出すのだが、結局マルセルは首を吊って死んでしまう。マルセルの死体の目玉にシモーヌは苛つき、放尿する。シモーヌと「私」は初めてこの死体の横で肉体関係を持った。警察の捜査が面倒と思ったふたりは、スペインに逃げ、そこでエドモンド卿というシモーヌを愛人にしようとした金持ちの世話になる。彼もシモーヌや「私」と通じる人物だった。スペインで闘牛を見たシモーヌは、牛の睾丸を網焼きにすると言う習慣を聞いて・・。
著者のエロティシズムと死から連想されるものを小説化した作品らしい。玉子も目玉も睾丸も(本書ではご想像の通り別の言葉が使われている)も形状として似たようなものだ。フランス語でのこれらの三つの言葉の発音も似ているそうだ。そして性行為と放尿もある意味快感という共通の感覚に根差している。著者はエロティシズムと性行為を死に対立する生の謳歌と捉えている。「目玉の話」は小説としても一見わかりにくいのだが、最後の章「思い出したこと」まで読めれば、「ああそう言う話か」とわかる(132~133頁付近)。この章で語られる「私」の少年時代の体験も連想に強く関連する。実はそれは著者の体験の話でもある。訳者には思い入れのある作品らしく、著者がなぜこんな話を書いたのか、特に「目玉の話」については、最後の章「思い出したこと」との関連において詳しい説明がある。
手持ちの本なので読んでみてこのように投稿したが、小説の表現はかなりあからさまであり、当然好みが分かれる作品と言える。
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