19世紀半ば、ニューヨーク、マンハッタン。
そこでは全てのものが熱され破壊されかき乱される。
愛も、憎しみも、善意も、悪意も、憎悪も、憐憫も、全てが。
そしてその坩堝から、"アメリカ"が産まれたのだ。
映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」でビル・ザ・ブッチャーは"I'm N.Y."と青年アムステルダムをせせら笑った。
残虐性と知性、子供への憐愍とその子供を陵辱することへの迷いなさ、父性、磊落さ、頑迷さ、あの映画でダニエル・デイ=ルイスが演じた男はまさにニューヨークそのものの混沌の権化だった。
そのニューヨークから、また一人、混沌の男が生まれた。
物語は全く「ギャング・オブ・ニューヨーク」と同じ時代。
ビル・ザ・ブッチャーのモデルとなったビル・プールも出てくるし、扱われているテーマも映画と同様、ネイティブズとアイルランド移民との確執である。
しかし、問題は移民対移民排斥主義者という単純な図式ではなく、宗教的にはカトリック対プロテスタントであり、政治的には民主党対ホイッグ党であった。
物語は、ティモシー(ティム)・ワイルドという1人の青年の一人称で語られる。
彼はバーテンダーという仕事柄か性格なのか、自らのそばを通り過ぎる人々の癖やら仕草やらから、その語られない物語を読み取る癖がある。
そう、父親の酒を買いに来た少年の服の沁みから彼が砂糖泥棒であることを見抜いてしまうように。
彼が理解できない人間は、二人だけだ。
1人は密かに想いを寄せる牧師の娘、マーシー。
彼女の魅力を語るティムの口調が含羞を帯びてて実に良い。
「もし、マーシーがこれ以上に完璧だったら、恋に落ちるのにまる一日かかるだろう。でも、彼女には実にちょうどいいあんばいに欠点があり、恋に落ちるのはあきれるほどかんたんだ」
そして、彼は彼女の欠点をあげ連ねていく。あごを二分する切れ込みのこと、一筋だけ収まりの悪い黒い巻き毛のこと、こちらの話を聞いているのかいないのかわからないあてどない視線のこと、肩からずり落ちそうな襟のこと……。後にティムは「欠点のない美女」である女と相対するが、その時の描写と好対照を為すシーンである。
もう一人、ティムが理解できない人間がいる。
それは、兄のヴァレンタイン(ヴァル)。
ティムにとっては、両親を火事で亡くした後、幼かった自分を庇護し育ててくれた保護者ではある。
しかし、素直に尊敬し敬愛できる男ではない。粗暴で、モルヒネ漬けで、怠惰で、強権的で、それでいて切れ者で誰からも一目置かれている、ヴァルとはそんな男である。
ティムには理解できない。なぜ、彼が両親を奪った火事に自ら身を投じるような消防団の仕事をしているのか。なぜ、できの悪い弟である自分を構い続けるのか。
ある日、ティムは火事に巻き込まれ、全てを失ってしまう。
仕事も、整っていた容貌も、マーシーにいつか求婚するために貯蓄していた全ての金も。
そんなティムを、兄のヴァルは新設された自らが分署長を務めるニューヨーク市警にスカウトする。
常に兄の影響下から逃げたがっているティムではあったが、背に腹は変えられずその申し出を受けるのだった。
そして、ある日ティムは血みどろの寝間着を来た少女娼婦を保護する。
彼女は「彼、切り刻まれちゃう」と口走り、その言葉通りティムは体を十字に切り裂かれた子供の屍体を次々と発見してしまう。
子供らは、全てアイルランド人で、幼い娼婦や男娼だった。
街には戦慄が走り、怪文書が出回り、あらゆる流言飛語が流される。
これは移民排斥運動なのか、いやカトリックの呪われた宗教儀式なのか。
誰もが、複数の仮面を持っている。
誰もが、自分の見たいところしか他人のことを見ていない。
誰もが、語るべきでないことをティムに語る。その口で、その視線で、その仕草で。
彼が愛したマーシーは、彼女の一部でしかなかった。
彼が憎んだ兄は、兄がわざと見せている姿でしかなかった。
彼が敬愛した牧師は、尋問した医者は、尊敬する神父は、愛した友は、信頼した仲間たちは、憎んだ娼婦は。
彼らは皆、語らない口でティムに真実の一欠片を語っていた。
その事に気付いた時、ティムは知るだろう。
彼もまた、ニューヨークの混沌の坩堝から、新しい姿で生まれ出でようとしていることに。
私は推理物の評価の仕方が全くわからないので、ミステリとしてどうなのかは言及しないが、歴史小説として極上に楽しめた。
ティムの細かい観察眼が、読者を19世紀半ばのファイブ・ポインツに誘う。
汚泥と汚物の匂い、人間に課せられたあらゆる営みが蜷局を巻く、あの子宮のような場所へ。
事件としての物語だけではなく、ティムとその兄の物語、ティムと幼い少女娼婦の物語など独立したエピソードも丁寧に描かれており、筆者の細やかな仕事ぶりに満足する。
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