ゆうちゃんさん
レビュアー:
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父は利己的な性格により、息子は軽薄さで、二代に渡って女をたぶらかすワルコフスキー公爵親子。彼らに翻弄されるひとたちの運命を描く。人は不運に取りつかれても却ってその状況を受け入れてしまうものらしい。
貴族に翻弄される人々を描いた作品。語り手で狂言回しとも言える私(ワーニャ)の目から見たイフメーネフ家とワルコフスキー公爵家の反目。
作家志望の私は、両親が幼い頃に亡くなり、ニコライ、アンナのイフメーネフ夫妻に育てられた。このふたりにはナターシャと言う娘がいて、私と婚約者の間柄になったこともある。イフメーネフ家はワシリエフスコエ村の領主でその隣の領主がワルコフスキー公爵だった。ニコライ・イフメーネフがワルコフスキー公爵と最初に会った頃、ワルコフスキー公爵は、ニコライの管理能力を評価し、彼に自分の領地の管理も委託した。しかし、数年経つとワルコフスキー公爵のニコライへの態度は一変する。不正な管理を行ったと言いがかりをつけ、訴訟を起こした。身に覚えのない彼は応訴するためペテルブルグに上京し、大学受験のために上京していた私と再び交際するようになった。
ところが、イフメーネフ家の娘ナターシャが、父親の敵であるワルコフスキー公爵の一人息子アリョーシャに恋してしまう。イフメーネフの気持ちを推し量り、私はナターシャを止めようとするが、ナターシャは自分しかアリョーシャの面倒が見られないのだと言い、アリョーシャの許に出て行ってしまう。イフメーネフは、娘を勘当する、と怒る。ワルコフスキー公爵は、アリョーシャを300万ルーブリの持参金を持つ娘カーチャと結婚させようと目論んでおり、アリョーシャを勘当こそしないものの、なんとかナターシャとの結婚を阻止しようと画策する。
本書の冒頭は、「審判」や「アンナ・カレーニナ」も冒頭と同じくらい有名らしいが、スミスと言う老人の死で始まる。それが上記のイフメーネフ家とワルコフスキー公爵家とどうかかわりあって行くのか最初は戸惑うが、父ニコライと娘ナターシャの関係がスミスの家でも見事な鏡像を結ぶ小説構造となっている。それが徐々に解き明かされてゆくのがこの小説の楽しみのひとつであると思う。
アリョーシャは絵に描いたような軽率で浅はかな人間であり、彼にナターシャがぞっこんとなる理由は今一つ不明確である。ナターシャとカーチャはアリョーシャを巡って恋敵になるのだが、カーチャの登場で、実はナターシャがどんな思いでアリョーシャと交際しているのか残念ながら一層不明確になってゆく。と言うのも、ナターシャは「子供みたいなアリョーシャをその性格故愛している」と言うし「(自分の幸せより)アリョーシャの幸せを願っている」と言う。実は今の状況ならアリョーシャにとって自分との結婚よりカーチャとの結婚の方が幸せになれそうだと悟っている。そうであれば、アリョーシャに対する態度は自ずと決まってくる気がするからである。まあ、アリョーシャも、その軽薄さ故に自分でも無理だとわかっていながらナターシャに固執して見せるのだが・・。因みに、カーチャとナターシャはアリョーシャを巡って、私とアリョーシャはナターシャを巡って恋敵であるはずなのだが、皆仲良しに描かれている。
ナターシャとその対角関係にあるスミスの孫娘ネリー(エレーナ)との言葉が題名を象徴しているようである。
どうにもならない運命に陥ると、不幸が快楽になってしまうらしい。
作家志望の「私」はどうやらドストエフスキー自身が投影されているようだ。彼の作品には珍しく希望を感じさせる終わり方をしている。
作家志望の私は、両親が幼い頃に亡くなり、ニコライ、アンナのイフメーネフ夫妻に育てられた。このふたりにはナターシャと言う娘がいて、私と婚約者の間柄になったこともある。イフメーネフ家はワシリエフスコエ村の領主でその隣の領主がワルコフスキー公爵だった。ニコライ・イフメーネフがワルコフスキー公爵と最初に会った頃、ワルコフスキー公爵は、ニコライの管理能力を評価し、彼に自分の領地の管理も委託した。しかし、数年経つとワルコフスキー公爵のニコライへの態度は一変する。不正な管理を行ったと言いがかりをつけ、訴訟を起こした。身に覚えのない彼は応訴するためペテルブルグに上京し、大学受験のために上京していた私と再び交際するようになった。
ところが、イフメーネフ家の娘ナターシャが、父親の敵であるワルコフスキー公爵の一人息子アリョーシャに恋してしまう。イフメーネフの気持ちを推し量り、私はナターシャを止めようとするが、ナターシャは自分しかアリョーシャの面倒が見られないのだと言い、アリョーシャの許に出て行ってしまう。イフメーネフは、娘を勘当する、と怒る。ワルコフスキー公爵は、アリョーシャを300万ルーブリの持参金を持つ娘カーチャと結婚させようと目論んでおり、アリョーシャを勘当こそしないものの、なんとかナターシャとの結婚を阻止しようと画策する。
本書の冒頭は、「審判」や「アンナ・カレーニナ」も冒頭と同じくらい有名らしいが、スミスと言う老人の死で始まる。それが上記のイフメーネフ家とワルコフスキー公爵家とどうかかわりあって行くのか最初は戸惑うが、父ニコライと娘ナターシャの関係がスミスの家でも見事な鏡像を結ぶ小説構造となっている。それが徐々に解き明かされてゆくのがこの小説の楽しみのひとつであると思う。
アリョーシャは絵に描いたような軽率で浅はかな人間であり、彼にナターシャがぞっこんとなる理由は今一つ不明確である。ナターシャとカーチャはアリョーシャを巡って恋敵になるのだが、カーチャの登場で、実はナターシャがどんな思いでアリョーシャと交際しているのか残念ながら一層不明確になってゆく。と言うのも、ナターシャは「子供みたいなアリョーシャをその性格故愛している」と言うし「(自分の幸せより)アリョーシャの幸せを願っている」と言う。実は今の状況ならアリョーシャにとって自分との結婚よりカーチャとの結婚の方が幸せになれそうだと悟っている。そうであれば、アリョーシャに対する態度は自ずと決まってくる気がするからである。まあ、アリョーシャも、その軽薄さ故に自分でも無理だとわかっていながらナターシャに固執して見せるのだが・・。因みに、カーチャとナターシャはアリョーシャを巡って、私とアリョーシャはナターシャを巡って恋敵であるはずなのだが、皆仲良しに描かれている。
ナターシャとその対角関係にあるスミスの孫娘ネリー(エレーナ)との言葉が題名を象徴しているようである。
ナターシャにとって(借金を作ったり、別の女に関心を持ったりするアリョーシャを)赦す過程そのものが一種の快楽だった(115、474頁)
(そんなことをする必要もないのに)物乞いをするネリーを見て「苦痛をいっそう搔きむしり、苦痛を楽しむやり方はよく理解出来る。それは、運命に苛まれ虐げられ、しかも運命の不当さを意識している多くの人々の楽しみなのである(443頁)」と「私」は思っている
どうにもならない運命に陥ると、不幸が快楽になってしまうらしい。
作家志望の「私」はどうやらドストエフスキー自身が投影されているようだ。彼の作品には珍しく希望を感じさせる終わり方をしている。
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神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。
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- 出版社:新潮社
- ページ数:686
- ISBN:9784102010204
- 発売日:2005年10月01日
- 価格:860円
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