ぽんきちさん
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ある樺太アイヌの数奇な人生/樺太アイヌ語入門
1913年(大正2年)博文館より発行された書籍を元とした新版。旧字旧仮名は新字新仮名に改められ、誤植と思われる部分も適宜修正されている。
少し変わった体裁の本である。
2/3ほどは、樺太アイヌであった山辺安之助(アイヌ名「ヤヨマネクㇷ」:1867~1923)の半生記。タイトルの「あいぬ物語」に沿う内容である。山辺は日本語も堪能であったが、あえてアイヌ語で口述してもらい、それを言語学者の金田一京助が聞き取って書き、日本語に訳した形である。ルビの形で、元のアイヌ語がカタカナで付記される。
新版のために書き下ろされたと思われる解説・年譜を挟み、金田一によるアイヌ語概要と語彙を収録。簡単な文法書と辞書のようなものである。簡素ながら言語学者らしい厳密な記述で、音韻や品詞、語序などについてまとめている。
非常に読みやすいわけではないが、味わい深い本である。
まず挙げるべきは、やはり、山辺の人生自体の数奇さだろう。
南樺太に生まれたが、ロシアが進出してくるのにつれ、山辺の集落は北海道に移住。幼時に両親を失い、孤児であった9歳の山辺もこれに同行した。対雁(現・江別市)で農作業にあたるが頓挫。多くは石狩で漁業に就くようになる。しかし、コレラや痘瘡が蔓延して、同胞の多くが命を落とした。26歳の山辺は仲間と船に乗り、ロシア領になっていた故郷に渡る。そこで暮らしていたアイヌを頼り、漁業で生計を立てるようになる。当時の樺太は日本の漁業権も認められており、日本の商家の下で働いていた。
だがここで、日露戦争が勃発。山辺は日本側の協力者として物資輸送や偵察にあたった。後にこの功績で叙勲を受けている。
山辺は教育を非常に大切に考えており、アイヌの子供たちのための学校設立に尽力もした。
後年、日本の国家事業として南極探検が計画された際、樺太犬の供出が求められた。樺太犬はアイヌの生活にとって非常に重要な存在だったが、山辺は自らの犬も5頭供出、他のアイヌにも供出するよう強く働きかけた。さらには、犬がいても使い手がいなければ十分にその長所を発揮できないと考え、自ら犬の使い手として探検隊に同行することを申し出、実際に白瀬矗の探検に同行した(しかし犬たちの第一陣はオーストラリアに着く前に死亡、第二陣の大半は南極に置き去りにされたというから、これはこれで痛ましい話である)。
南極から樺太への帰途の途中、旧知の金田一の元で口述筆記されたのがこの「あいぬ物語」である。
濃い人生を歩み、樺太にて56歳で病没。六尺豊かの体躯だが、穏やかな人柄だったという。
樺太アイヌの自伝であり、背景には時代の空気が見え隠れする。
同時に、アイヌ語の入門書としてもかなり本格的という、なかなか特異な本である。樺太アイヌ語は北海道アイヌ語とも少し異なる点があるのだそうで、そのあたりの考察も興味深い。
聞き取りや編集、和訳にかかった作業量も相当のものと思われるが、言語学者・金田一の強い熱意を感じる労作である。
少々疑問なのは、戦争や国家事業への協力と、山辺自身は、全般に親日の姿勢が顕著なのだが、親露的な立場のアイヌはいなかったかという点である。あるいは親日的な山辺だからこそ、金田一との共同作業が可能だったということか。アイヌの中でも、ロシア語が堪能なものもいたようなので、日本やロシアに対する距離感の違いや温度差はありそうにも思われるのだが、本作からはそのあたりはよくわからない。
山辺の親日姿勢の一方で、やはり背後には根強いアイヌ差別の陰も感じる。
そもそも金田一の和訳で、「アイヌ」に対して充てられている訳語が「土人」である。おそらくは金田一が特に差別的であったわけではなく、また「現地人」にあたる程度の意味(と、特に、言う方は思っている)なのかもしれないが、当時、陰に日にやはり差別はあっただろう。
軍功を挙げたのも、厳しい探検を何としても遂行しようとしたのも、そして子供たちに一刻も早く読み書きを身につけさせようと努力したのも、ひとえに、アイヌの地位向上を求めていたのではないだろうか。
<参考>
・『熱源』:山辺を主人公の1人とした小説
・『犬たちの南極』:昭和の第一次南極越冬隊が伴った犬のお話。こちらも樺太犬。
少し変わった体裁の本である。
2/3ほどは、樺太アイヌであった山辺安之助(アイヌ名「ヤヨマネクㇷ」:1867~1923)の半生記。タイトルの「あいぬ物語」に沿う内容である。山辺は日本語も堪能であったが、あえてアイヌ語で口述してもらい、それを言語学者の金田一京助が聞き取って書き、日本語に訳した形である。ルビの形で、元のアイヌ語がカタカナで付記される。
新版のために書き下ろされたと思われる解説・年譜を挟み、金田一によるアイヌ語概要と語彙を収録。簡単な文法書と辞書のようなものである。簡素ながら言語学者らしい厳密な記述で、音韻や品詞、語序などについてまとめている。
非常に読みやすいわけではないが、味わい深い本である。
まず挙げるべきは、やはり、山辺の人生自体の数奇さだろう。
南樺太に生まれたが、ロシアが進出してくるのにつれ、山辺の集落は北海道に移住。幼時に両親を失い、孤児であった9歳の山辺もこれに同行した。対雁(現・江別市)で農作業にあたるが頓挫。多くは石狩で漁業に就くようになる。しかし、コレラや痘瘡が蔓延して、同胞の多くが命を落とした。26歳の山辺は仲間と船に乗り、ロシア領になっていた故郷に渡る。そこで暮らしていたアイヌを頼り、漁業で生計を立てるようになる。当時の樺太は日本の漁業権も認められており、日本の商家の下で働いていた。
だがここで、日露戦争が勃発。山辺は日本側の協力者として物資輸送や偵察にあたった。後にこの功績で叙勲を受けている。
山辺は教育を非常に大切に考えており、アイヌの子供たちのための学校設立に尽力もした。
後年、日本の国家事業として南極探検が計画された際、樺太犬の供出が求められた。樺太犬はアイヌの生活にとって非常に重要な存在だったが、山辺は自らの犬も5頭供出、他のアイヌにも供出するよう強く働きかけた。さらには、犬がいても使い手がいなければ十分にその長所を発揮できないと考え、自ら犬の使い手として探検隊に同行することを申し出、実際に白瀬矗の探検に同行した(しかし犬たちの第一陣はオーストラリアに着く前に死亡、第二陣の大半は南極に置き去りにされたというから、これはこれで痛ましい話である)。
南極から樺太への帰途の途中、旧知の金田一の元で口述筆記されたのがこの「あいぬ物語」である。
濃い人生を歩み、樺太にて56歳で病没。六尺豊かの体躯だが、穏やかな人柄だったという。
樺太アイヌの自伝であり、背景には時代の空気が見え隠れする。
同時に、アイヌ語の入門書としてもかなり本格的という、なかなか特異な本である。樺太アイヌ語は北海道アイヌ語とも少し異なる点があるのだそうで、そのあたりの考察も興味深い。
聞き取りや編集、和訳にかかった作業量も相当のものと思われるが、言語学者・金田一の強い熱意を感じる労作である。
少々疑問なのは、戦争や国家事業への協力と、山辺自身は、全般に親日の姿勢が顕著なのだが、親露的な立場のアイヌはいなかったかという点である。あるいは親日的な山辺だからこそ、金田一との共同作業が可能だったということか。アイヌの中でも、ロシア語が堪能なものもいたようなので、日本やロシアに対する距離感の違いや温度差はありそうにも思われるのだが、本作からはそのあたりはよくわからない。
山辺の親日姿勢の一方で、やはり背後には根強いアイヌ差別の陰も感じる。
そもそも金田一の和訳で、「アイヌ」に対して充てられている訳語が「土人」である。おそらくは金田一が特に差別的であったわけではなく、また「現地人」にあたる程度の意味(と、特に、言う方は思っている)なのかもしれないが、当時、陰に日にやはり差別はあっただろう。
軍功を挙げたのも、厳しい探検を何としても遂行しようとしたのも、そして子供たちに一刻も早く読み書きを身につけさせようと努力したのも、ひとえに、アイヌの地位向上を求めていたのではないだろうか。
アイヌがこの窮状を済ふべきものは、なまやさしい慈善などではない、宗教でもない、善政でもない、教育であるという言葉の重さが強く響く。自分の代では無理かもしれない、けれど、次世代にはよりよい未来を手に入れてほしいという切なる願いがやはり心底にはあったのだろう。
<参考>
・『熱源』:山辺を主人公の1人とした小説
・『犬たちの南極』:昭和の第一次南極越冬隊が伴った犬のお話。こちらも樺太犬。
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分子生物学・生化学周辺の実務翻訳をしています。
本の大海を漂流中。
日々是好日。どんな本との出会いも素敵だ。
あちらこちらとつまみ食いの読書ですが、点が線に、線が面になっていくといいなと思っています。
「実感」を求めて読書しているように思います。
赤柴♀(もも)は3代目。
この夏、有精卵からヒヨコ4羽を孵化させました。現在、中雛、多分♂x2、♀x2。ニワトリは割と人に懐くものらしいですが、今のところ、懐く気配はありませんw
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- ページ数:0
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