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紅い芥子粒
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わたしは、この小説にひそかに副題をつけた。『リトル・アリョーヒンの数奇な一生』、と。
リトル・アリョーヒンとは、「リトル・アリョーヒン」という名まえの人形の中で、チェスをさしていた人のことだ。
盤上の詩人と呼ばれたロシアの偉大なチェスプレイヤー、アレクサンドル・アリョーヒンにちなんでつけられた名である。

人形の前にチェス盤があり、彼は、その下にもぐりこんでレバーを操作して、人形の手を動かす。
天才的な棋士なのに、ほんとうの名を世に知られることもなく、人形の中の人として一生を終えた。

チェス盤の下にもぐりこめるのだから、その人はとても小さい。
11歳の少年のときの大きさのままだ。
自分の意志で成長を止めてしまったと書かれているが、ほんとうは、止まってしまったのかもしれない。

ふつうの人が書けば、気の毒な人のグロテスクな話になってしまいそうなのに、この作者の手にかかると、やさしく美しく感動的な物語に仕上がる。小川洋子という作家は文章の魔術師だとつくづく思う。

彼は、生まれたとき、上唇と下唇がくっついていた。すぐさま、唇を切り離す手術が施され、傷口に脛の皮膚が移植された。移植された唇からは、すね毛が生えた。

おさないころに両親は離婚し、母親も死に、祖父母に育てられた。祖父母の家は貧しく、デパートの屋上に遊びに行っても、何も買ってもらえず、お子様ランチも食べさせてもらえず、ただボイラー室の裏にたたずんで、むかしそこにいたという像に想像をめぐらすだけだった。

学校ではいじめられ、いつもひとりぼっちだった。
ミイラという少女とインディラという像の友だちがいたが、ふたりともすでにこの世のものではなく、彼の空想の中の親友だった。

ある日、学校のプールに浮かんでいた死体に導かれ、生涯の師となるマスターに出会う。
マスターは、バス会社の独身寮の管理人で、回送バスを素敵に改装して住まいとし、チェスと甘いお菓子作りを生きがいにしていた。

彼は、マスターからチェスの手ほどきを受ける。
毎日、学校帰りに回送バスを訪れ、マスターとチェスを差した。
チェス盤の下に潜り込み、駒を動かす時だけ手と顔を出すというのが、彼のプレースタイルだった。
チェス盤の下には、白黒まだらのポーンというマスターの愛猫がいて、ポーンをなでながら次の手を考えた。

回送バスを訪れる少年がチェスの天才であることを見抜いたマスターは、由緒正しいチェスクラブに彼を連れて行った。

そのことが、彼がリトル・アリョーヒンとして生きる道筋をつけた……

この物語に登場する人たちはみな、社会の片隅に追いやられ、ひっそりとつつましく生きている人ばかり。


誠実で腕のいい家具職人の祖父。
慈愛にあふれた祖母。
ハトを肩に止まらせた手品師の娘。
チェスの名プレーヤーで、一度破壊された人形の修理費用を負担してくれた老婆令嬢。
丘の上の高齢者マンションで、ゴンドラの操縦係をしている兄弟。
夜食を食べることが大好きで職務熱心な、高齢者マンションの看護師長。
……

読みながら、何回涙したことか。
マスターが甘いものの食べすぎによる肥満で、死んでしまったとき。
マスターをみとった猫のボーンが、どこかへ消え去ったとき。
祖母が、リトル・アリョーヒンのチェスを見て、ルールも知らないのに感動の涙を流しながら息をひきとったとき……

成功とか、名誉とか、名声とか、富とか……人が人として生まれて生きて死んでいくのに、そんなものは不要なのだと、思わせてくれる珠玉の名作だった。

読み終わってから、リトル・アリョーヒンの下唇にもじゃもじゃと生えるすね毛の意味を考えた。
眼の色とか鼻の形とか、顔立ちについての描写はなかったと思う。切っても切っても、顔のどまんなかに伸びてくる縮れた黒いすね毛ばかりが印象に残った。少年の体のまま成長を止めてしまった人だから、きっと顔の皮膚もつるんとして、いつまでもきれいなのだろう。唇のすね毛だけが、リトル・アリョーヒンの成長と成熟と老いを表すものだったのかしらん……

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紅い芥子粒
紅い芥子粒 さん本が好き!1級(書評数:560 件)

読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。

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