hackerさん
レビュアー:
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「どんな革命でも、始まったとたん、とんでもない汚職の天国になってしまう」こういう罵倒若しくは嘆きなら良いのですが、正当かつ具体的な根拠なしに、それが特定の人種や国民に向けられれば、差別になります。
1937年刊の本書は、一応、政治パンフレットということになっていますが、読んでみると実体は小説です。そして、本国フランスでは第二次大戦後は発禁状態で、英語にも翻訳されていないとのことですが、その状況は今でも変わっていないでしょう。理由は簡単、反ユダヤ主義が露骨に書かれている本だからです。
セリーヌの代表作は『夜の果てへの旅』(1932年)『なしくずしの死』(1936年)『城から城』(1957年)『北』(1960年)の四作だと私は思っていて、それにはセリーヌに魅せられた方の大半が同意いただけると思います。これらの作品に共通するのは、社会全体に対する罵倒と同時に、自身の不遇を嘆く自虐に満ちたユーモアで、その一方で感じられる純粋なものへの憧れ―例えば、犬猫への愛情、バレエへの憧憬―などが混在し、独自の言葉による小宇宙を創り出しています。もちろん、本書の訳者が述べているように「話し言葉を徹底的に導入した」「革命的な作家」という、世界文学史上の重要な側面も無視できません。しかし、こういう罵倒が特定の人種なり国家・国民を対象にすると、それは差別以外の何物でもありません。本書は、そういう一冊です。
この点について、訳者の片山正樹は解説の中で、次のように擁護しています。
「セリーヌは親ナチスでも国家主義的右翼でもなく、単に、不平等な社会を、つまり政治と経済、情報と芸術、市民生活など各分野における少数特権階級の横暴ぶりを、総括的に攻撃したのです」
これを全面的に否定するつもりはありませんが、本書におけるセリーヌの攻撃は、自己に対する過剰な自信を感じさせてしまい、彼の最初の二作が持っていた、自虐に満ちたユーモアと純粋なものへの憧れを失ってしまっているように思えます。悪くとると、『夜の果ての旅』で一躍文壇の寵児となったものの、『なしくずしの死』は思ったようには売れず、頭にきて当たるを幸い罵倒した対象が、文壇のみならず芸術分野での進歩が著しいユダヤ人だったという風にも解釈できます。ただし、20世紀には芸術のあらゆる分野にユダヤ人が進出したことは事実ですが、批評家も含めたユダヤ人集団が同胞の評価を意図的に歪曲して高めたと主張したり、ユダヤ人=芸術の支配者みたいに思うのは、あまりにも感覚的かつ感情的です。訳者解説によると、作中で散々悪口を書かれているアンドレ・ジッド(彼もユダヤ人ですが)は、本書のことを「あまりにグロテスクなので真剣に受けとめようがない」と語ったそうですが、それは正しい反応でしょう。そんな本書で印象的だったのは、「われわれの元にユダヤ人がいるのではない。ユダヤ人の元にわれわれがいるのだ」という文章で、白人がマイノリティーになるのを恐れているアメリカの右派の姿を思い起こしました。発想の根底は似ていると思います。
と言うわけで、本書は読む価値がありません。あるとすれば、私のようなセリーヌ好きだけです。こういう否定すべき部分も含めて、一人の人間なり作家が存在するのでしょう。例えば、三島由紀夫を好きな方が、三島由紀夫を語るのに、彼の切腹事件を避けて通れないのと同じだと思います。ただ、あの事件を好意的にとらえるなら、私のこの例には当てはまりませんが。なお、私は三島由紀夫はそんなに好きではありません。念のため。
セリーヌの代表作は『夜の果てへの旅』(1932年)『なしくずしの死』(1936年)『城から城』(1957年)『北』(1960年)の四作だと私は思っていて、それにはセリーヌに魅せられた方の大半が同意いただけると思います。これらの作品に共通するのは、社会全体に対する罵倒と同時に、自身の不遇を嘆く自虐に満ちたユーモアで、その一方で感じられる純粋なものへの憧れ―例えば、犬猫への愛情、バレエへの憧憬―などが混在し、独自の言葉による小宇宙を創り出しています。もちろん、本書の訳者が述べているように「話し言葉を徹底的に導入した」「革命的な作家」という、世界文学史上の重要な側面も無視できません。しかし、こういう罵倒が特定の人種なり国家・国民を対象にすると、それは差別以外の何物でもありません。本書は、そういう一冊です。
この点について、訳者の片山正樹は解説の中で、次のように擁護しています。
「セリーヌは親ナチスでも国家主義的右翼でもなく、単に、不平等な社会を、つまり政治と経済、情報と芸術、市民生活など各分野における少数特権階級の横暴ぶりを、総括的に攻撃したのです」
これを全面的に否定するつもりはありませんが、本書におけるセリーヌの攻撃は、自己に対する過剰な自信を感じさせてしまい、彼の最初の二作が持っていた、自虐に満ちたユーモアと純粋なものへの憧れを失ってしまっているように思えます。悪くとると、『夜の果ての旅』で一躍文壇の寵児となったものの、『なしくずしの死』は思ったようには売れず、頭にきて当たるを幸い罵倒した対象が、文壇のみならず芸術分野での進歩が著しいユダヤ人だったという風にも解釈できます。ただし、20世紀には芸術のあらゆる分野にユダヤ人が進出したことは事実ですが、批評家も含めたユダヤ人集団が同胞の評価を意図的に歪曲して高めたと主張したり、ユダヤ人=芸術の支配者みたいに思うのは、あまりにも感覚的かつ感情的です。訳者解説によると、作中で散々悪口を書かれているアンドレ・ジッド(彼もユダヤ人ですが)は、本書のことを「あまりにグロテスクなので真剣に受けとめようがない」と語ったそうですが、それは正しい反応でしょう。そんな本書で印象的だったのは、「われわれの元にユダヤ人がいるのではない。ユダヤ人の元にわれわれがいるのだ」という文章で、白人がマイノリティーになるのを恐れているアメリカの右派の姿を思い起こしました。発想の根底は似ていると思います。
と言うわけで、本書は読む価値がありません。あるとすれば、私のようなセリーヌ好きだけです。こういう否定すべき部分も含めて、一人の人間なり作家が存在するのでしょう。例えば、三島由紀夫を好きな方が、三島由紀夫を語るのに、彼の切腹事件を避けて通れないのと同じだと思います。ただ、あの事件を好意的にとらえるなら、私のこの例には当てはまりませんが。なお、私は三島由紀夫はそんなに好きではありません。念のため。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:国書刊行会
- ページ数:445
- ISBN:9784336030719
- 発売日:2003年06月01日
- 価格:6300円
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