※某所にて優しくこの本をくださったはにいさんに心から感謝します。
私は天邪鬼(あまのじゃく)だ。ベストセラーは何となく小馬鹿にしていて基本読まない。本書もそんな憂き目にあってしばらく本棚の隅で放置されていた。でもせっかくいただいたのだからと試しにちょっと読んでみた。
糸田潤の往年のギャグ「甘ーい!!」と同じようなテンションで「おもしろーい!!」と叫びそうになる。危ない。
結局全4巻一気読みしてしまった。
そして小馬鹿にしてたくせに激しく感動してしまう。
最初は気のいい仲間。後には最大の敵となる泉州海賊の面々とその親分、眞鍋七五三兵衛(まなべ しめのひょうえ)が特に良かった。
デリケートのデの字もなさそうな奴らだがとにかく明るい。
馬鹿だけどすこぶる気がいい。
そんな気質の最高純度が親分の七五三兵衛で彼と部下の会話が上も下もない感じで結構笑けた。
引用しようかと思ったけど面倒なので辞めときます。是非読んでみて笑ってください。
クライマックスの木津川合戦のくだりは一転してハラハラドキドキ手に汗握る大アクションです。
お腹一杯でもう食べれません的な感じになります。
こんな感じでとても楽しい読書でした皆様も是非どうぞみたいな感じでこの駄文を終わらせようと思ったのだけど、何となく思った本当にどうでもいいようなことを少し書いて終わりとしたい。
昔、クエンティン・タランティーノ監督の『キルビル』という映画を見たときのことを思い出した。ユマ・サーマンことキルビルが敵をバッサバッサと切り刻むのだが切られた奴の痛がり方が半端ではなかった。なんというかうぎゃああああ!って感じで血がブシューッ!っと吹き出してちょっとスプラッタ的な感じで辟易したのだが、案外一緒に見た友人はケロっとしていた。だってこれ映画じゃん。現実じゃないじゃんと言うのである。その時わかったことは、どうやら世の中には物語は物語として割り切って楽しめるタイプの人間と、私のように多少なりとも我が身に置き換えて考えてしまう二つのタイプがあることだ。話を本書に戻すと、こんなに娯楽要素の強い爽快な物語を読んだ後に、私はすこし落ち込むのである。それは自分が到底七五三兵衛や景のように意志や価値観で恐怖や死を克服するような強い生き方が絶対に出来っこないという暗い自負によるものだと思う。あまりに立派だったり、爽快すぎる物語は何となく身体に毒なのだ。私はもっとろくでもない人間を読みたい。クズでゲスで生きていく価値のない穀潰しのような主人公を読みながら蔑みたい。下には下がいるもんだと思うことで自分自身が救われる場合だってあるのだ。こんなどうしようもないことを感じながら、私は『村上海賊の娘』を「物語」として楽しんだ。年を重ねるごとに自分のなかの繊細な部分が図太さに取ってかわってきているからだ。それはそれは楽しく血湧き肉躍る読書体験であった。読了した夜、興奮して眠れなかった。
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