私の親父の時代、一世を風靡した喜劇役者は、榎本健一ことエノケンと古川郁郎別名古川緑波ことロッパとそれに柳家金語楼だった。3人とも1901年から1904年にかけ誕生している。
エノケンは東京青山に生まれたが、母、祖母と死に、父に育てられた。満州の馬賊に憧れていて、将来は馬賊になろうと考えていたが、演芸の本場浅草に通いつめ結局役者となる。エノケンは体が柔らかく動き、走っている車の右ドアかでて、回り込んで左ドアから乗り込む芸当ができたという逸話がある。
一方ロッパは東京帝大総長加藤弘之の長男男爵加藤照麿の6男として生まれ早稲田卒業。学生時代に映画雑誌を出版。その才能に着目した文芸春秋社長菊池寛に引っ張られ文芸春秋に入社。「キネマ旬報」の編集者となる。エノケンは庶民の出だが、ロッパは貴族の出である。
ロッパは、声帯模写が得意。夜の浅草を音曲を鳴らして歩く。2階から芸奴が顔を出す。そこで、当時有名な歌舞伎俳優などの声帯模写をやる。すると芸奴がロッパに向かってお金を投げる。まるで、夜泣きそばならぬ声帯模写屋台だ。実は、昔は声帯模写は声色と言われていた。声帯模写という言葉を作ったのはロッパである。
2人とも浅草の演芸場で活躍していたが、この2人を結び付けたのが関西の経済界の大物小林一三。小林一三は阪急電鉄の社長で、沿線住民の憩いの場として宝塚少女歌劇を創設。東京進出として、日比谷に東京宝塚劇場を作る。東京は大都会でサラリーマン時代になっていた。浅草のような特殊な場所ではなく、顧客はサラリーマンということで作ったのである。これを機に、小林一三は演芸興行の会社の名前を東宝にする。そして古川ロッパ一座を引っ張りこみ専属契約をする。
面白いのは、専属契約をする条件としてロッパは関西の宝塚劇場でロッパ一座の劇をやらしてくれと頼む。一三が了解したが、この舞台は失敗した。フィナーレに少女歌劇団が中央舞台を降りてくるのではなく、むくつけない男たちが降りてくるのだから。その後、男たちが宝塚舞台の登場したことがあっただろうか。
その後、小林一三はエノケンにも声をかけ東宝に引っ張る・
そしてエノケン・ロッパが結びつき、舞台、映画で大活躍して世間を席巻する。
東京大空襲でエノケンの家が全焼する。神吉拓郎が見舞いにエノケンの家にゆく。
エノケンが言う。
「そこには池があったんだ。」
まっ平な土地、池などない。
「疲れるから、縁側に腰かけて話そうか。」と言ってエノケンは腰かける。
もちろん、縁側などない。エノケンは空気の中に座って、足を組んで話だす。
ラジオ番組でパーソナリティをしている徳川夢声が病で出演ができなくなる。代わりにロッパが務める。誰も夢声ではなくロッパがパーソナリティをしていることに気付かなかった。エノケン、ロッパまさにここにありだ。
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