水木しげる: 鬼太郎、戦争、そして人生 (とんぼの本)

戦争で死を覚悟した若者は、哲学書を読む
<音楽と言葉のはざま>から紡ぎ出される、静謐で、美しい日本語。
鎌倉に生まれ育ったので、子供のころ、悲しいこと、不快なこと、いらだつことがあると、近くの海へ行き、波打ち際を歩きました。なにかにつけ、海と砂のはざまを歩きました。海水と砂粒が混じる線を進んでいると、左から海の響き、右から陸の響きが聞こえて、それは分離しているけれども、溶け合います。
(略)
このようなことを書いたのは、左に音楽、右に言葉があるはざまを歩くと、聞こえていなかった音、読めていなかった言葉が、立ちのぼってくるかもしれないという思いで、本書に収められた連載を続けているからです。
『音のかなたへ』 毎日新聞出版/あとがき より
●大学の校舎を出ると、葉がすべて落ちて枝だけをさらしているイチョウ並木の下に、透きとおった傘の花が連なっていた。おっ、雨が降っているのか。どんよりと落ち込んでくる空の下に、ビニール傘がかすかに光って大きな丸い水滴のように見える。上下しながら進む透明のリズミカルな揺れに、ふと、歌を感じた。
「はるさめす」
●「水の薔薇」という言葉をドイツ語の単語、Wasserroseとして初めて見たとき、ひんやりした冷たさを伴って静かに花弁を開こうとしている薔薇の姿が思い浮かんだ。水の色を映す、この世には存在しない青い花びら ⎯⎯ 。Wasserroseの単語が「睡蓮」を意味するとは、そのとき知らなかった。
「モネの音」
●テニスコートに乱反射する光の泡が、かすかな陰りを生んでいる。夏の光は、外に向けて心を開かせるようでいながら、心を閉じさせもする。まぶしさに思わず目を伏せてしまうからだろう。
「一九一四年夏」
●音楽は不可視のものに入ってゆく。文学、美術も不可視の世界に入らないわけではない。ただし、可視を経て不可視へ至る。カフカの未完の長編小説『城』のように。
「橋の上で」
●料理と音楽は受け取るときの感覚が似ているとある作曲家から聞いた。確かに、甘い音、やわらかな肌触り、なめらかな味わい等々、体感するときの形容は限りなく近いかもしれない。直感的にその世界へ入ってゆくところも共通している。
「悲しい味」
『音のかなたへ』 毎日新聞出版/「音のかなたへ」 より
時が止まって、一九一四年の夏がそこにあった。あの夏に、世界は再び向かっているのだろうか。
『音のかなたへ』 毎日新聞出版/「音のかなたへ 一九一四年夏」 より
●冬ざれの都会にエリを立てて歩く。サントリーホールへ着くと、コンサート前のざわめきがロビーを満たしていた。にぎやかさを引きずって早めに席についた。
「ポゴレリッチのピアノリサイタル」
●写生をするには、秋の日差しの下がいい。まだらな枯れ葉をすりぬけて木洩れ日がふんだんに降り注ぐ上野公園の桜並木の下を歩いていて、そう気づいた。
「チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》」
●才能を見いだす側と、見いだされる側とは、一瞬ごとに入れ替わっているのではないだろうか。
「クレーメルとドゥバルグのデュオ・リサイタル」
●古代の鳥も、現代の鳥も、同じ鳴き方だろうか? 喜びを表すにしても苦しみの吐露にしても、鳥はいつの時代にも変わらずにさえずるのだろうか? ヴィヴァルディに春の喜びをもたらした鳥の声を、今も同じように喜びとして聴けるのだろうか?
「庄司紗矢香の《「四季」のリコンポーズ》
●色が満ちるにしたがって音が消えてゆくときがある。桜の花びらに吹雪かれて、周りの雑多な音が遠のいてゆくように。
「レオン・フライシャーのモーツァルト」
●くれなずんでゆく京都の空に、二条城の瓦屋根が本を伏せたように浮かぶ。やがて薄い雲と黒い瓦のあわいに、切妻のなだからな曲線が消え始める。広大な木の館からはひっそりと歴史の劇がにおう。形を整えられた松の木々が黒いシルエットでゆるやかなリズムを描き、うち続く庭の間延びをぬぐいさっている。
「二条城のボローニャ歌劇場《蝶々夫人》」
『音のかなたへ』 毎日新聞出版/「新・コンサートを読む」 より




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