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<音楽と言葉のはざま>から紡ぎ出される、静謐で、美しい日本語。

音のかなたへ
鎌倉に生まれ育ったので、子供のころ、悲しいこと、不快なこと、いらだつことがあると、近くの海へ行き、波打ち際を歩きました。なにかにつけ、海と砂のはざまを歩きました。海水と砂粒が混じる線を進んでいると、左から海の響き、右から陸の響きが聞こえて、それは分離しているけれども、溶け合います。
(略)
このようなことを書いたのは、左に音楽、右に言葉があるはざまを歩くと、聞こえていなかった音、読めていなかった言葉が、立ちのぼってくるかもしれないという思いで、本書に収められた連載を続けているからです。
『音のかなたへ』 毎日新聞出版/あとがき より


『死せる菩提樹』に続いて梅津時比古氏のエッセイ『音のかなたへ』です。本書は、1987年から毎日新聞紙上で続けられた連載のうち2013年から2017年までのものをまとめたもので、その連載への梅津氏の思いが、上記の「あとがき」の一節です。


「最も美しい日本語」と、丸谷才一氏らが愛した言葉たち
本書は「音のかなたへ」と「新・コンサートを読む」の二部構成です。それぞれほぼ見開き2ページで一つのエッセイが掲載されていて、「音の ⎯⎯ 」には41、「新・ ⎯⎯ 」には43編が編まれています。違いは、「音の ⎯⎯ 」はエッセイのテーマに音楽の話題を合わせる形、「新・ ⎯⎯ 」は主としてコンサートの見聞についての批評・感想です。コンサートを読む、というタイトルも秀逸だけれど、まず試しに「音のかなたへ」から、幾つか冒頭の一節を抜粋してみます。

●大学の校舎を出ると、葉がすべて落ちて枝だけをさらしているイチョウ並木の下に、透きとおった傘の花が連なっていた。おっ、雨が降っているのか。どんよりと落ち込んでくる空の下に、ビニール傘がかすかに光って大きな丸い水滴のように見える。上下しながら進む透明のリズミカルな揺れに、ふと、歌を感じた。
「はるさめす」
●「水の薔薇」という言葉をドイツ語の単語、Wasserroseとして初めて見たとき、ひんやりした冷たさを伴って静かに花弁を開こうとしている薔薇の姿が思い浮かんだ。水の色を映す、この世には存在しない青い花びら ⎯⎯ 。Wasserroseの単語が「睡蓮」を意味するとは、そのとき知らなかった。
「モネの音」
●テニスコートに乱反射する光の泡が、かすかな陰りを生んでいる。夏の光は、外に向けて心を開かせるようでいながら、心を閉じさせもする。まぶしさに思わず目を伏せてしまうからだろう。
「一九一四年夏」
●音楽は不可視のものに入ってゆく。文学、美術も不可視の世界に入らないわけではない。ただし、可視を経て不可視へ至る。カフカの未完の長編小説『城』のように。
「橋の上で」
●料理と音楽は受け取るときの感覚が似ているとある作曲家から聞いた。確かに、甘い音、やわらかな肌触り、なめらかな味わい等々、体感するときの形容は限りなく近いかもしれない。直感的にその世界へ入ってゆくところも共通している。
「悲しい味」
『音のかなたへ』 毎日新聞出版/「音のかなたへ」 より


いかがでしょう? それこそ小さなピアノ曲か何かの導入部のようです。それでいて、エッセイというより短編小説にでも広がってゆきそうな情景も眼に浮かびます。あの丸谷氏をして「最も美しい日本語」と言わしめた所以が、これだけでもお分かりいただけるのではないでしょうか。

続けて話題は、関連するコンサートや曲へと移ってゆきます。例えば「一九一四年夏」では、続けて青春という言葉が嫌いだという話になり、その感覚に近い芸術作品として長編小説『チボー家の人々』をあげ、背景にある1914年の社会情勢から、その年にラヴェルが作曲したピアノ三重奏曲イ短調のコンサートへと、読者を導いてゆくのです。その流れはとても自然で、梅津氏が抱いた思いにも、読み手はそっと触れることができます。この一文では、1914年という年が第一次世界大戦を間近に控え、ラヴェルのピアノ三重奏曲がその不安を如実に表していることを綴った上で、最後にこう締めくくるのです。

時が止まって、一九一四年の夏がそこにあった。あの夏に、世界は再び向かっているのだろうか。
『音のかなたへ』 毎日新聞出版/「音のかなたへ 一九一四年夏」 より


梅津氏の書く文章は僕がこれまで読んできたどれにも増して美しいけれど、ただそれだけには止まらない、本書には<悲しみ>というニュアンスが見え隠れする気がするのです。


あたかもそのコンサートを聴いているかのように
後半の『新・コンサートを読む』では、先に書いた通り梅津氏が実際に見聞されたコンサートについてが語られます。しかし、いきなりその話題に入ってゆくわけではなく、やはり前触れというか、会場に入る前の周辺の情景やら演奏者のこと、あるいは演奏曲目に関連する何某かの話に、読者はまず耳を傾けることになります。こちらも少しご紹介したいとおもいます。

●冬ざれの都会にエリを立てて歩く。サントリーホールへ着くと、コンサート前のざわめきがロビーを満たしていた。にぎやかさを引きずって早めに席についた。
「ポゴレリッチのピアノリサイタル」
●写生をするには、秋の日差しの下がいい。まだらな枯れ葉をすりぬけて木洩れ日がふんだんに降り注ぐ上野公園の桜並木の下を歩いていて、そう気づいた。
「チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》」
●才能を見いだす側と、見いだされる側とは、一瞬ごとに入れ替わっているのではないだろうか。
「クレーメルとドゥバルグのデュオ・リサイタル」
●古代の鳥も、現代の鳥も、同じ鳴き方だろうか? 喜びを表すにしても苦しみの吐露にしても、鳥はいつの時代にも変わらずにさえずるのだろうか? ヴィヴァルディに春の喜びをもたらした鳥の声を、今も同じように喜びとして聴けるのだろうか?
「庄司紗矢香の《「四季」のリコンポーズ》
●色が満ちるにしたがって音が消えてゆくときがある。桜の花びらに吹雪かれて、周りの雑多な音が遠のいてゆくように。
「レオン・フライシャーのモーツァルト」
●くれなずんでゆく京都の空に、二条城の瓦屋根が本を伏せたように浮かぶ。やがて薄い雲と黒い瓦のあわいに、切妻のなだからな曲線が消え始める。広大な木の館からはひっそりと歴史の劇がにおう。形を整えられた松の木々が黒いシルエットでゆるやかなリズムを描き、うち続く庭の間延びをぬぐいさっている。
「二条城のボローニャ歌劇場《蝶々夫人》」
『音のかなたへ』 毎日新聞出版/「新・コンサートを読む」 より


・・・きりがない。松の木々がリズムを描いて庭の間延びをぬぐいさっている ⎯⎯ こんなふうに風景を語ってみたいものです。梅津氏は続けて、例えばオペラなどの場合当日の舞台設定など詳述することもあれば、曲目の解説に触れることもありますが、概ね音の解説に移ってゆきます。それは、音の響きであったり高低であったり、あるいはピアノとバイオリンが互いにどう相手を歌わせているかといった、かなり専門的なところまで言及されるのだけれど、言葉は決して専門家然としているわけではなくむしろ、あたかも今まさにその演奏を一緒に聴いているような、そんな思いにさせてくれます。梅津氏は、若い演奏家の演奏はその若さについて、巨匠の演奏は、以前に聴いたそれとの違いについて、その良さとともに、違和感は違和感なりになぜそう感じるのか、決して批判的にではなく、その理由を解き明かそうと腐心されます。そうして演奏が終わったあとの余韻にまで梅津氏は言及され、ごく短いエッセイではあるけれど、読者もまた一つのコンサートを聴き終えたかのように、満足感を味わうことができるのです。

ただ、本書で紹介されているコンサートは2013年から15年にかけてのもので、今実際にそれを聴くことはまずできません。本書のなかで梅津氏は、食べ物の食べごろやワインの飲みごろと同じように、音楽作品にも(違った意味で)聴きごろがある、とおっしゃっています。とすれば、本書で紹介されているコンサートを聴きたいとおもうのは、旬を過ぎたものを食べたいと言っているのと同じで、ないものねだりということでしょうか。そう言えば、確かに二部のテーマはコンサートを「読む」でした・・・
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  • 掲載日:2026/05/04
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