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「ことばって不便やな。いつもうまく間にあわんねん。さわったち、さわられたりしたほうがずっとええときもあんねんな」(本書登場人物の台詞)

  • レビュアー: さん
  • 本が好き!1級
  • 夜が明けたら
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  • 出版社:KADOKAWA
夜が明けたら
「すっかり老人になったぼくには、あの時代の思い出はちょっと刺激が強すぎるね。なんていったらいいのかな、気持ちをつれていくには、時間とそれなりのエネルギーがいるんだ。きみたちみたいに若い人にはわからないだろうけど...」(本書登場人物の台詞)


2016年刊の本書の物語は1972年3月11日から始まります。その年、私は二十歳になり、あることが理由で日本から逃げ出しました。この本が響くのは、そういう個人的背景もあります。まず、内容を紹介します。

まず、一人称のジュンという女性の語りで、物語はスタートします。その日の新聞には新左翼の過激派グループ「旅団」が起こした内紛によるリンチ殺人―モデルはもちろんあさま山荘事件を引き起こした連合赤軍のリンチ殺人です―の犠牲者13名の写真が、禍々しい見出しと一緒に載っていました。

「―残忍さに目を覆う静粛の嵐
 ―死にたくない!必死の懇願も届かず...メンバーが自供
 ―山の中腹 雑木林で二体」

その中に、親友だったりつ子がいたのです。実は、ジュンもりつ子に誘われる形で、このグループの一員だったのですが、あることがきっかけで、組織から離れたのでした。しかし、いまだに公安からは、もはや顔なじみになった見張りがついていました。りつ子と二人でオザキと勝手に命名した男も、わざわざジュンのアパートにやって来て「さみしいやろうし、まあ体には気いつけ」と言うくらい、りつ子とジュンは親密でした。ただ、実際にはジュンはレズビアンであり、りつ子は苦しいほどの片思いの相手だったのです。

翌朝、立川のボロ・アパートを出て、あてもなく中央線散歩していると、国立駅の近くに「ひっそりと亡霊のようにたたずむ木造の洋館」が目に入ります。「戦後の建築物が建ち並ぶ一角にあって、その建物だけ長い時間をこえてきたような趣」でした。玄関横には「空き部屋あり」という貼り紙があり、衝動的にジュンはここに引っ越すことを決めます。そのアパートは幸海荘(さちみそう)と言い、そこでジュンは様々な人と出会うことになるのです。


ここから、場面は2024年5月に飛びます。この時代のヒロインは、二階堂ルルと言う月刊小説誌『Toska』の編集者です。フリーのカメラマンのハンジとルームシェアしていますが、彼はホモセクシュアルであり、彼女はレズビアンなので、男女の関係ではありません。ルルは、ある日、編集長から一ノ瀬ジュンという女性が送ってきた、今どき珍しい手書きの原稿を読んで、感想を教えてくれと言われます。原稿には手紙が添付されており、「かつて自分が旅団事件で親友を亡くしたこと、終活をするなかで、昔書いた原稿がでてきたこと、街の書店で偶然手に取った『Toska』が若い女性向けにフェミニズム特集を組んでいて、その雑誌の編集者に原稿をぜひ読んでほしいと思ったこと」などが書かれており、こう結んでありました。

「先の短い身ですから作家デビューには興味ありません。ただ、学生運動にかかわるなかでわたしが抱えた葛藤を、若い世代の編集者のみなさんがどうお感じになるか、一度コメントなどいただけたら、と思ったのです。一度にあまりたくさんお送りするものも失礼かと思い、ひとまず冒頭部分のみお送りいたします。もし読んでいただけるようでしたら、続きもお送りいたしますのでご連絡ください」

ルルは読んでみましたが、もう一つピンと来ませんでした。そもそも旅団事件のことをあまり知らず、ネット検索をして、いろいろと調べましたが、「馬鹿みたい、12名も殺しちゃうなんて」と思い、ふと気づきます。原稿の冒頭では犠牲者は13名と書かれていたことを。

本書は、1970年代に書かれた一ノ瀬ジュンの一人称で書かれた原稿と、2024年の二階堂ルルの活動を三人称で語る部分が、交互に語られるという構成を採っています。また、冒頭で語られているジュンの原稿は、彼女が最初に送った原稿のすべてではないことも、次第に分かってきます。最初の原稿の最後の方には、次のようなことが書かれていました。

「あたしとりつ子は境遇がとても似ていた。
りつ子は愛媛のさびれた港町の平屋で思春期をすごして、あたしは弘前の町外れのバラックのようなスナックの2階で思春期をすごした。あたしたちの幼いころの記憶には、分かちがたく貧しさがこびりついている。
漁師だったりつ子の父親は彼女が7歳のときに海にでて帰ってこなかった。あたしの父さんはあたしが4歳のときに原爆症で血を吐いて死んだ。そしてかあさんは遠い親戚をとよって本州の北の果ての弘前迄夜逃げ同然で引っ越した。いまなら、かあさんが被爆者への差別に耐えられなくてそんな遠くまでいったということがわかる」

そして、りつ子のノートには、吉本隆明の詩『涙が涸れる』の抜き書きが書いてありました。

「とほくまで ゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
 嫉みと嫉みとをからみ合はせても
 窮迫したぼくらの生活からは 名高い
 恋の物語はうまれない
 ぼくらはきみによって ただ
 屈辱を組織できるだけだ
 それをしなければならぬ」

それを読んで、ジュンは思います。

「とほくまでゆくんだ、というフレーズが心に響く
りつ子のいうように、あたしも、あたしたちの居場所がいまのままの社会にないということを身をもって感じていた。だから、だれもが平等に生きることのできる社会を、その理想を描きだしてくれた革命に惹きつけられた。そして故郷を捨てたあたしは、いまここで闘うことで、まだ見えていない『遠く』へ行くのだとほんとうに信じていた。

でも、りつ子は殺された。
遠くまでいくどころか、北関係の凍える山のなかで。
そして、あたしは、運動に沈みこんでいくりつ子を見捨てて逃げだした。男たちがかわいい女の子を物色するような運動のなかにいても『遠く』にはいけないと気づいてしまったから。
ああ、でも、それは欺瞞的ないいわけだ。あたしは、なによりも臆病だった。あたしは故郷やかあさんを捨てたのと同じように、社会をよくしたいという理想を、りつ子を、なによりも自分自身を捨ててしまった。
―いまも逃げ続けている」

しかし、ルルは迷います。

「どうして社会変革の理想に燃えていた人たちが、あんなふうに人間を人間とも思わないような残酷なことができたのか―そこから一歩も進めなくなってしまった。考えようとしても、答えにつながる道筋がまったく見えてこなかった」

続きを読むことにあまり乗り気でないルルに対し、1972年はまだ3歳だった編集長はこう言います。

「いっとくけど、当時はね、いまよりはるかに社会は乱暴だったけど、もうちょっと人間が自由だった気がする」

コメントしておくと、あの時代のことを、当時二十歳前後だった私は、今でもよく「空気には殺気があって、何でもありの時代だった」と表現します。ベトナム戦争の最中に開かれたウッドストック音楽フェスティバル(1969年)で、ジミー・ヘンドリックスが爆撃の擬音を交えながらアメリカ国歌を演奏し、その後でヤクでラリッている姿を表現した『パープル・ヘイズ』を歌ったり、「ぼくは君の腰の間を行ったり来たりする」「来て!今よ!」とセルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキンがデュエットした『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(1969年)が全世界でシングル600万枚のヒットを記録したり、知的障害のある少女と中年男の愛を描いたアルベルト・ラットゥアーダの"Le farò da padre"(1974年、日本未公開)が撮られたり、ピエロ・パオロ・パゾリーニが『ソドムの市』(1976年)でスカトロの場面を露骨に描写したりしたのは、ほんの一例です。これらは、現在では通常の商業ベースに乗せることはまず不可能でしょう。

編集長は、ルルに諭すように言います。

「それにね、あのころの学生たちは本気で平等な社会ができるって、自分たちでつくるんだって信じてたんだと思う。社会に対する当事者意識っていうのかな。いまじゃ格差なんて普通でしょ。それだけ後退してるって見方もできるんじゃない?」

ルルは、元大手新聞社記者で、今はフリーランスの本郷という昔からの知り合いの男に会いに行くことにします。ベトナムとカンボジアに合わせて5年いたという本郷は、ルルの母親や編集長と同世代で、旅団事件時はまだ子供だったのですが、以前に旅団事件のことを話していたのを思い出したのです。西荻窪のアジア居酒屋で、本郷は1972年3月8日付、旅団事件が報じられる数日前の新聞のコピーを見せます。

「―”死のしごき”3人有罪
 ―『大学側にも責任』 東京地裁 陰湿な伝統批判
現在でも保守系として知られている大学の空手サークルで、退部しようとした18歳の部員に集団で暴行を加え殺害したという事件の地裁判決を伝える記事だった」

これを見せた後で、本郷は語りだします。

「これを見たときさ、なんだ同じようなことやってんじゃねえかって思ったんだよ。このリンチ事件は、すぐ後の旅団事件でかすんじまって、それ以降、ほとんどふれられることもなかったよ。でも、気になって遡って調べてみたらさ、60年代から70年代はじめにかけて、とくに登山部のリンチ事件ってやつがけっこうあるんだよ。理由は新入部員を鍛えるためとか、いろいろあるけど、要は痛めつけることを指導と勘違いしてるんだ。それってさ、目的は違っても、メンバーの共産主義化のために総括援助をはじめたあいつらと構造はそっくりだろう?」

「旅団事件が特別だったわけじゃないって発見は、おれのなかで完全に視点の逆転だったんだろうな。それから事件当事者の手記を読みまくったよ。なぜ起こったのかっていうよりも、どうして止められなかったって問題だと思ったんだ」

「山に集まってたやつらも、機動隊に火炎瓶投げたり郵便局強盗したり結構な強者ぞろいだぜ。それが暴力的な総括要求がはじまるとほとんど反論らしい反論もできないまま、仲間だったやつの首をしめたり、恐ろしくなって夜逃げしたりする始末さ。―証言読みまくってようやく気づいたんだ。やつらだけの問題じゃなくて、おれたちの問題でもあるって。根本には、おれたちが小学校から培ってきた奴隷的感性があるんじゃねえかって思ったんだよ。まちがってるやつは鉄拳で叩きなおすしかない、上官の命令には絶対服従みたいな、日本の軍隊精神っていうのかな。敗戦で終わったわけじゃねえんだよ」

「おれたちの社会には、明らかに欠陥がある。学校や、会社や、地域のコミュニティ、どこでもいい、生まれ育ってくる過程で人間が粗末にされすぎなんだよ。いまの時代は違うなんていうのは簡単だろう。でもな、おれには、あの事件の後にほんとうはもっと向きあって変えなきゃいけなかったものが、そのまま残ってしまったみたいな、逆にそっちから目を逸らそうといした結果が今の時代だって感じすらするんだよ」

この本郷の発言は、本書の肝です。現在、ネット上で氾濫している言葉の暴力は、リンチ殺人と何ら変わらないのではないか、それは隙あらばいつでも表にでてくるのではないかという主張は、おそらく作者がもっとも語りたかったことの一つではないかと思います。

ルルは、一ノ瀬ジュンに連絡を取り、残りの原稿を送ってもらうことにします。そして、自身は、ジュンが残した人生の痕跡をたどることを決めます。実は、ルルにも、片思いに苦しんだ女性があり、2015年の安保法案反対の学生運動に携わっていて、そこから「逃げた」経験があったのでした。


本書の素晴らしさの一つは、1972年という時代の人間と雰囲気の描写です。私はその時代に青春まっただ中でしたから、それがよく分かります。最初は、私と同世代の人間が書いたのかと思ったくらいです。ただ、作者の青波杏は1976年国立市出身で、それは違っていたのですが、元々は京都大学大学院で博士号を取得した「近代の遊廓の女性たちによる労働問題を専門とする女性史研究家」であり、『遊廓のストライキ: 女性たちの二十世紀・序説』(2015年)等を別名義で著していますので、ノンフィクション作家としての力量が成せる技だと分かりました。

そして本書は、1970年代と2024年の社会と人間を交互に描くことにより、ジュンとルルが苦しんだ問題の本質は、なんら変わっていないことを描きだします。それは何かと言うと、既存社会だけでなく、平等な社会に変えようと主張する側にも、頑として残る女性差別です。女性を性の対象=子供製造機としか見ていない男性優位思想が隅々まではびこっている日本社会の姿です。それは、同時に、同性愛者や、「日本人でない」人間への根強い拒否感も持ち合わせていたのです。これが、本書の中心テーマです。

ラスト近く、ルルは、レズビアンである自分が学生運動仲間だった男から受けた性暴力体験を、酒場で編集長に涙ながらに告白します。りつ子も似た体験をしていたことを、ジュンの原稿から知ったこともあるでしょう。ルルはこう言います。

「認めたくないんですけれど、あの晩の出来事があって、それから声を上げようとして、周りにつぶされて。その挫折がわたしのほんとうの声を奪ってしまったんじゃないかって...もしかしたら抜け殻の人生だったんじゃないかって思ったら怖くなっちゃって」

編集長はこう言います。

「ううん、そんなことないのよ。あなたには声がある。ずっとそうだった。奪われてなんかいないわ。だから大丈夫。また開いちゃった傷を急いで閉じようとしないで。もちろん、他人であるわたしには二階堂さんの痛みはわからない。でもね、わたし、ずっと働いている二階堂さんを見てきたの。ちゃんと、考えて必死に向かい合ってる。...たまに手抜きだけれどね」

編集長と別れた後で、ルルはあらためて編集長の言葉を噛みしめます。

「私には言葉がある」

そう、黙っている必要はないのです。


ところで、1970年代の登場人物の多くは、「日本脱出」をしています。理由は様々ですが、彼らは皆ある意味で日本から「逃げた」のです。数年たって日本に戻った者もいますが、そのまま他国での人生を選んだ者もいます。冒頭で述べたように、私もそういう一人でした。私が逃げたのは政治的理由ではありませんでしたし、1年だけでしたが、振り返ってみると、この「遠く」へ行った「日本脱出」はその後の私の人生をおそらくポジティブな方向に大きく変えました。少なくともネガティブではなかったと思います。当時、「日本脱出」した者の大半は、何かを学んでやろう、という意気込みがあったものです。それが変わってきたのは、バブルの時代のころでしょう。その頃、私はロンドンにいて、日本のバブルの状況を直接は知らなかったのですが、勤めていた会社に「研修」とか「現地視察」とかいう訳の分からない名目で大勢出張するようになったのには、驚いたものです。同時に、やって来る若者たちに「学んでやろう」という姿勢があまり感じられなくなり、会社の同僚とそれを嘆いたことを覚えています。現在の若者が、この点を実際どう思っているかは分かりませんが、YouTubeにはやたら「日本礼賛」をする動画があるのを見ると、いまだにバブル時代の「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」の幻影を引きずっている人間が少なくないように感じます。そういう「自分と違う者」あるいは「自分と違うジェンダー」への差別を根底に引きずる者がいなくならない限り、作者はこういう本を書き続けるのでしょう。

なお、ジュンの原稿では13人となっていて、現在では12人となっている、リンチ殺人の犠牲者数ですが、ジュンの原稿はノンフィクションではない、とだけ言っておきます。ただ、人によっては、この「作り」はあまり気に入らないかもしれません。


また、本書の題名は、作中にも言及がありますが、浅川マキが歌った曲『夜が明けたら』(1970年)から来ています。彼女が作詞作曲もしていますが、その歌詞を引用しておきます。ジュンとりつ子の「とほくまでゆくんだ」という気持ちが反映した歌です。

「(セリフ)
 夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
 夜が明けたら一番早い汽車に乗るのよ

(歌)
 夜が明けたら
 夜が明けたら
 夜が明けたら
 一番早い汽車に乗るから
 切符を用意してちょうだい
 私のために
 一枚でいいからさ

 今夜でこの街とはさよならね
 わりといい街だったけどね

 夜が明けたら
 一番早い汽車に乗って
 いつか噂に聞いたあの街へ
 あの街へ行くのよ

 いい人ができるかもしれないし
 あの街へ行くのよ

 夜が明けたら
 一番早い汽車に乗るわ
 みんなは私に言うの
 そろそろ落ち着きなってね

 だけどだけども 人生は長いじゃない
 そう、あの街はきっといいよ

 夜が明けたら
 一番早い汽車に乗るから
 切符を用意してちょうだい
 本当、本当よ
 一枚でいいのよ

 いつだって身軽なあたしじゃない
 そう、乗るのよ

 夜が明けたら
 夜が明けたら
 夜が明けたら」

ただし、おそらくですが、もう一つ岡林信康の歌『友よ』(1968年)も作者の頭にはあったのではないでしょうか。岡林信康と鈴木孝雄作詞、岡林信康作曲の歌ですが、これも歌詞を紹介しておきます。

「友よ 夜明け前の闇の中で
 友よ 闘いの炎をもやせ
 夜明けは近い 夜明けは近い・・・・・・
 友よ この闇の向こうには
 友よ 輝くあしたがある

 友よ 君の涙 君の汗が
 友よ むくわれる その日がくる
 夜明けは近い 夜明けは近い・・・・・・
 友よ この闇の向こうには
 友よ 輝くあしたがある

 友よ 昇り来る 朝日の中で
 友よ 喜びを分かち合おう
 夜明けは近い 夜明けは近い・・・・・・
 友よ この闇の向こうには
 友よ 輝くあしたがある」


最後に、この本を読む若い人たちにお願いしておきます。1970年代のジュンの原稿には、当時は皆が知っていたようなことがバンバン出てきます。例えば「江波杏子のようなするどい目」と言われても、何のことか分からない方が多いでしょう。もちろん注訳などありませんし、そのまま流して読んでも構わないのですが、できれば、分からないことが出てきたらネットで調べてみてください。より興味が湧くと思います。

    • 「江波杏子のようなするどい目」と作中で語られていた江波杏子
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  • 掲載日:2026/05/25
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この書評へのコメント

  1. 三太郎2026-05-25 07:18

    1972年には僕は高校生でした。学生運動には関心がなく、その直後にやってきたオイルショックの騒動はよく覚えています。10歳年上の兄は学生運動の真っただ中にいたようなのですが。

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