本作『イン・ザ・メガチャーチ』は、アメリカ発祥の巨大教会「メガチャーチ」を比喩として、現代社会における推し活やファンダム、さらには陰謀論的コミュニティに共通する「信仰構造」を描いた作品です。物語は三人の人物――久保田慶彦、武藤澄香、隅川絢子――を軸に進行し、それぞれ異なる立場から同一の構造へと引き込まれていく過程が描かれます。
久保田慶彦は、かつて成功した音楽プロデューサーでありながら、時代に取り残され、家庭も崩壊し、社会的な居場所を失った中年男性です。唯一のつながりである娘との関係も希薄で、彼は深い孤独の中にあります。そんな彼の前に現れたのが、かつての同僚橋本による新たなアイドルプロジェクトでした。慶彦はこの仕事に飛びつき、再び社会との接点を得ますが、その裏で進められていたのは従来の音楽ビジネスとは異なる発想――すなわち「商品ではなく信徒を獲得する」ための仕組みづくりでした。
一方、娘の武藤澄香もまた、別の形で孤独に苦しんでいます。大学での人間関係に馴染めず、自分の性格をMBTIというラベルで説明されることで、かえって自己否定を強めていきます。そんな彼女が偶然出会ったのが、アイドルグループBloomeのメンバー道哉でした。彼の発する「Bloom myself」という言葉は、澄香にとって救いの言葉となり、彼女はファンダム「花道」の一員として深く没入していきます。
さらに、隅川絢子は、推していたアイドルの死をきっかけに陰謀論へと傾斜していく人物です。彼女は仲間とともに真相究明を掲げますが、やがてより閉鎖的で過激なグループへと取り込まれ、現実から乖離していきます。ここでは、悲しみの共有がやがて信仰へと変質し、個人を消耗させていく過程が描かれます。
この三者の物語を統合するのが、Bloomeのプロデュースを担う国見の思想です。彼は、人間は本質的に何かに没頭し、中毒状態に陥ることを望む存在であり、その欲望を利用するには「物語」を与えればよいと考えます。共感しやすい人物を中心に据え、ファンに自己投影を促し、やがてその集団を「信徒化」する。この構造は宗教そのものであり、アイドルファンダムはその現代的な変形として機能していきます。
道哉という存在は、そのための装置として設計されます。繊細で内向的な彼は、ファンにとって「自分自身」と重ねやすい存在であり、その弱さや言葉が物語となって拡散されていきます。澄香はその物語に救われる一方で、「ちゃみする」というSNSアカウントを通じて他のファンを煽動する立場へと変わっていきます。ここで彼女は、救われる側であると同時に、他者を取り込む側へと転じるのです。
この点において、本作は単純な搾取構造を描いているのではありません。慶彦もまた、最初はプロデューサーとしてファンダムを設計する側に立ちながら、やがて道哉への感情移入によって理性を失い、暴走していきます。絢子も陰謀論に取り込まれた被害者でありながら、その思想を拡散する加害者となっていきます。すなわち本作では、「操る者」と「操られる者」の境界が曖昧であり、誰もが同時にその両方の役割を担う存在として描かれているのです。
語後半では、Bloomeのデビューと陰謀論グループの集会が渋谷で同時に展開され、二つの「信仰」が同一空間で交錯します。この場面は、現代社会において異なる形の依存や信念が並立しながらも、根本的には同じ構造を持っていることを象徴しています。
ここで絢子は、自らがすでに消耗し尽くされた存在であることに気づきますが、その直後に現れるのが、別の信仰の担い手となった澄香です。澄香は「視野を狭める=ファンとしてアイドルに没入する」ことで生きやすさを得た存在として、絢子に新たな道を提示します。この瞬間、救済と支配は区別できないものとして提示されます。
最終的に慶彦はプロジェクトから外され、再び孤独な立場へと戻ります。しかし彼が外部からファンダムを眺めたとき、そこに熱狂する「ちゃみする」が自分の娘であることに気づく場面は、この物語の最大の皮肉であり、同時に核心です。彼は構造を理解しながら、それを止めることも、外れることもできないのです。しかしこの事件の黒幕の一人国見は慶彦に密かに尋ねます。視野を狭めるのは楽しかったかと。それがどんな物語でも、吞み込まれて暴走するのは楽しかったのかと。。。国見もまた慶彦と同じ孤立に苛まれていたのだと思われました。。。
本作が描いているのは、「推し活の危険性」そのものではなく、「人間が意味を求める存在であるがゆえに、何かに依存せざるを得ない」という事実です。そして、その依存を巧みに設計し、拡大することが可能であるという現実です。メガチャーチとは、まさにそのような意味の供給装置の象徴であり、本作に登場するファンダムや陰謀論コミュニティは、その現代的な変奏に他なりません。
さらに重要なのは、これらの構造が単に人を搾取するだけでなく、同時に「救い」をも提供してしまう点です。澄香はファンダムの中で初めて自分の居場所を見出し、絢子もまた一時的には仲間を得ています。慶彦も仕事を通じて社会とのつながりを回復します。つまり、危うい仕組みが人を救ってしまうという矛盾が、本作の不穏さを生み出しています。
そのため本作は、明確な善悪や救済を提示せず、読者に強い違和感を残します。登場人物に感情移入しにくいという印象は、この構造を冷徹に提示するための意図的な手法とも言えるでしょう。そして読者自身もまた、何らかの物語や価値観に依存している存在である以上、この構造の外側に完全に立つことはできないのです。
総じて本作は、現代社会に蔓延する「つながり」と「依存」の構造を、宗教的比喩を通じて鋭く描き出した作品であり、その冷静さと残酷さゆえに、読者に深い思索と居心地の悪さを残すものとなっています。私はこの作品の登場人物に全く感情移入出来ませんでした。私にとって推し活は意味の無い事で、本作が行った問題提起は私には響きませんでした。現代における大問題でありましょうが、この作品に没入せず、距離を保ちながら読む姿勢こそ、この作品の本質に最も迫る読み方であると思いました。
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